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長州の苦悩と、明治維新への胎動。 唐獅子10
更新 : 2010/7/8 11:49
中国地方8国120万石から
周防・長門の2国36万石に減封された毛利家は、
収入源を補うために増税を行います。
しかしこれによって1608年
「山代慶長一揆」が起こります。
首謀者である11人の庄屋は斬首されましたが、
一揆を鎮圧するため年貢率が73%から40%に減額。
庄屋たちは義民として民衆から称えられ、
供養のための寺の建立も許されました。
一方、武士たちも苦しみました。
毛利家臣団の多くが鍬(くわ)を持ち、
田畑の開墾に汗を流さざるを得ませんでした。
生きるためには農民になるしか無かったのです。
しかし幕末における長州藩結束の秘密は
実はこのあたりにも要因があるらしい。
長州においては農民や平民の多くが
「関ケ原以前は毛利の家臣であった」
という誇りを持っており、
また武士たちもそのことをよく理解していたため、
「打倒徳川」のため身分差を越えて
団結することができたと言われているのです。
この点、藩内の武士階級で
「上士」と「郷士」の差別が深刻化していた土佐とは
対照的だと言えます。
一方、「唐獅子図屏風」はどうなったか。
この絵が毛利に贈られた
およそ200年後、
獅子は再び動き出すことになりました。
1783年
アイスランドで大規模な火山噴火が起こり、
成層圏まで上昇した塵のために
世界的な低温化現象が起こりました。
日本ではこれに岩木山と浅間山の噴火が重なり、
更に厳しい冷害となって
日本の近世史上では最大規模と言える
「天明の飢饉」(1782〜1787)が起こりました。
全国で90万人以上が亡くなったと言われています。
そんな中、1788年(天明8年)に
京都御所が炎上。
2年後には再建されるのですが、
このとき毛利家ではあることを行ったと
よろづやには伝えられています。
「唐獅子図屏風」を天皇に献上するため、
狩野派の当主に模写をさせたのです。
(続く)
※ 写真は永徳の唐獅子と対になる
子獅子の屏風(常信作)。
バランスがいいですね。
これと比較すると、
永徳の「唐獅子図屏風」は余白が足りず、
やや不安定な印象を受けます。
特に上と左。
この部分が多めに
切り落とされたのだろうと推測します。
ブログ担当 ミソサザイ
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