秀の山雷五郎銅像
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津波にも負けず - 秀の山雷五郎銅像のクチコミ
岩手ツウ くろさん 女性/30代
- カップル・夫婦
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秀ノ山雷五郎像
by くろさん(2013年1月撮影)
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気仙沼の岩井崎にあります。
階上出身の横綱・秀ノ山雷五郎像。
東日本大震災の津波にも耐えた強さに感銘しました。
- 行った時期:2013年1月
- 投稿日:2017年11月29日
- このクチコミは参考になりましたか?2はい
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雷五郎
1808年に、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市)で海上運輸業を営む家に長男として生まれる。当時家に出入りしていた荷揚げ人の中に元力士である籬嶋がいたが、籬嶋に辰五郎の二男である源太夫が相撲の指導を受け、土地相撲の大関として活躍していたことが刺激となり、辰五郎も力士を目指すようになった。その後は家の裏にあった榎を相手に毎日ぶつかった結果、榎を枯らしてしまったと伝わる。榎を枯らしてしまったことで稽古場を失った辰五郎は、それでも力士になる夢を諦めきれずに無断で家出して仙台の兄を訪ねたが、力士になる話を聞くと猛反対されたため、一人で江戸へ出ていくつかの相撲部屋を訪ね歩いた。しかし、辰五郎の身長の低さから全く相手にされなかったために一度は諦めていたところへ、同郷の荒熊に拾われると、荒熊から使い走り扱いされたことに失望して仙台に戻り、魚問屋「境屋」へ奉公に出た。この奉公の合間に相撲の稽古に励むと力量が増し、再び江戸へ出て秀ノ山部屋へ入門した。
入門後は雑用ばかりで稽古どころか土俵にも上がらせてもらえなかったが、入門前に得た怪力と努力、さらに激しい闘志によって実力を付け、「北山 辰五郎」の四股名で1828年に初土俵を踏む。雲州藩の抱え力士となってからは「天津風 雲右衛門」と改名し、のちに横綱へ昇進する不知火諾右衛門と同時に新入幕を果たした。入幕後も持ち前の怪力と闘志は健在で、盛岡の南部藩の抱え力士に転向後は1841年1月場所で大関に昇進、「岩見潟 丈右衛門」と改名後に1844年10月場所からは「秀ノ山 辰五郎」を襲名した。1847年9月場所で、入門から19年目で吉田司家から悲願の横綱免許を授与された。詳細情報をみる
- 行った時期:2016年3月
- 投稿日:2017年1月16日
タヒロさん
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津波にも残った!残った!
震災後にこの像のことを知りました。あれだけの大きな津波にも負けずに、この像は残りました。秀ノ山の銅像は海に向かって立っています。当時の様子を語ることはできないけれど、この像を見て、津波のことを忘れないでほしいと思います。
詳細情報をみる
- 行った時期:2014年6月21日
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2014年6月23日
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よっちんさんの秀の山雷五郎銅像のクチコミ
三陸復興国立公園の最南端、岩井崎に建立された銅像です。
東日本大震災の大津波に耐え、堂々と太平洋を見据えています。
写真:2013年3月30日)第9代横綱・秀ノ山雷五郎銅像
詳細情報をみる
- 行った時期:2013年3月
- 投稿日:2013年9月14日