称念寺
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お寺 - 称念寺のクチコミ
東京ツウ りすさん 女性/60代
- 友達同士
風情のあるお寺で、歴史の深い場所だそうです。お寺の建物自体も、重厚感があって、歴史を感じられました。
- 行った時期:2014年6月
- 投稿日:2017年6月24日
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りすさんの他のクチコミ
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明智光秀が越前で過ごした場所
大河ドラマで明智光秀が越前に逃れて過ごすシーンがありましたが、この称念寺がその場所とあって、興味深く訪れました。お寺は最近建て替えられたようでかなりきれいでした。
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- 行った時期:2021年5月2日
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2021年5月8日
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昔からある
昔からある伝統的なお寺となっています。文化にもぶれてみるのもたまにはいいことでしょうね。行ってみましょう。
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- 行った時期:2017年10月
- 投稿日:2017年11月3日
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畑と田んぼに囲まれた景色に新田義貞と明智光秀の物語がありました。
称念寺は、一遍上人が鎌倉時代に開いたお寺と伝わっています。○後醍醐天皇と足利尊氏が戦った南北朝時代、新田義貞は後醍醐天皇の命を受け戦い続けましたが、延元3年(1338)7月2日灯明寺畷の戦いにおいて、眉間に矢を受け戦死します。義貞の遺骸はこの称念寺に葬られたと伝えられます(享年39歳)。○明智光秀は、浪人となり各地を転々としていましたが、朝倉氏に仕官する為、称念寺の門前に寺子屋を開きます。生活が厳しい中、朝倉の家臣と連歌の会を催したことから、光秀は朝倉氏への仕官がかなったと言われます。しかし、その連歌会のお金は、妻の熈子が自慢の黒髪を売って用立てたものでした「夫婦愛の物語」と言われるものです。元禄2年(1689)8月称念寺に立ち寄った松尾芭蕉は『月さびよ明智が妻の咄(はなし)せむ』の句を残しました。なお、娘のお玉(細川ガラシャ)は永禄6年(1563)この地に生まれたと伝えられます。
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- 行った時期:2016年11月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 家族の内訳:配偶者、その他
- 人数:3人〜5人
- 投稿日:2017年1月8日
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へし子さんの称念寺のクチコミ
泰澄大師が養老5年、阿弥陀堂を創建して開山されたといわれる、坂井市丸岡町長崎にある名刹。
新田義貞が灯明寺畷で戦死した後、称念寺住職によって手厚く葬られたことから、
新田義貞の菩提寺として知られるようになリました。
明智光秀も不遇のころ、同寺の上人の好意で仮住まいしていました。
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- 行った時期:2009年9月28日
- 投稿日:2010年11月16日
へし子さん