オヤケアカハチ生誕の地
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ぽつんとある - オヤケアカハチ生誕の地の口コミ
北海道ツウ fghdfdさん 男性/20代
- 一人
-
碑
by fghdfdさん(2014年10月撮影)
いいね 0
特に目印とかもなくポツンとあるため何も考えていなと通りすぎます
入場料とかあるわけではないのでそういった不満はありませんが
よほど見たいと思わない限りは
時間短縮のため他の観光名所を回ったほうがいいと思います
- 行った時期:2014年10月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2014年11月3日
- この口コミは参考になりましたか?0はい
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波照間生まれ。1500年頃の英雄。
琉球国王による弾圧に対しアカハチが島民の先頭に立って反旗を翻したけど、鎮圧されてしまったそうです。
石垣の大浜(住んでたところ)、小浜島のオケヤアカハチの森(乱のあと逃げ込んだ)とかあちこちに足跡があるようです。詳細情報をみる
- 行った時期:2013年11月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2018年4月14日
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八重山列島の独立を真に考えていた男なのかも…。
遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)、波照間島で生まれ後に石垣へと移った15世紀末の豪族です。その生い立ち等には不明な点が多いものの、日本人離れした精悍な顔つき、赤茶けた縮れ毛といった独特の風貌の持ち主であり、そのことからアカハチ≠ニ名付けられたとされる伝承も残っています。
石垣島大浜を拠点としたオヤケアカハチは、ほとんどの島の住民を味方に引き入れ、当時別勢力であった宮古島の仲宗根豊見親と八重山の長田大主が計る琉球王府に従うことに真っ向から対立したことによって溝を深めていきました。そして折しも第二尚氏王朝第三代尚真王は中央集権化を進めることによって強力な王府を作り上げる最中という状況下にありました。そこに出てきたオヤケアカハチという人物、王府に従うことに対して八重山になにもメリットがないという信念で義民兵≠募るものの、これが仲宗根豊見親によって琉球王府に伝えられ、それによって琉球王府は八重山に大軍を率いて押し寄せます。
オヤケアカハチの軍勢は約1,500人と言われています。そこに乗り込んできた軍船46隻に3,000名もの兵士の上陸を躊躇わせたのは、急峻な地形と住民の女性による呪文だったとされています。しかし竹やりや鎌くらいしか武器を持たないアカハチの軍勢は多勢に無勢1週間ほどでオヤケアカハチも討たれ、八重山の反乱は沈静化されました。
そして琉球王国の属国となった八重山諸島を更なる悲劇が襲います。1609年に琉球に侵攻した薩摩藩の圧力を受け、宮古・八重山の島々に人頭税≠課されることになります。370年もの間八重山や宮古を苦しめた悪税の発端は、考え方によっては琉球王府に近付こうとして近付けなかったオヤケアカハチの乱の鎮圧に始まっているのではと思えるところが多々あります。結局中山の臣下として役職は与えられたものの、それは個人の問題であって住民のことなど何も考えていなかったためと考えることが理に適っていると思えてなりません。今なおオヤケアカハチを慕う人々がたくさんおられるというのは、個人的な利権に捉われず義≠貫き通した彼に賛同する気持ちが持てるということに他なりません。武器らしい武器もなく、戦いを挑むのは無茶だったかも知れませんが、それには大義名分があったと思えてなりません。詳細情報をみる
- 行った時期:2016年8月
- 混雑具合:空いていた
- 滞在時間:1時間未満
- 投稿日:2016年8月13日