メタボ大王さんの長野県の旅行記

古代科野(信濃)の国府・国造をさがす上田市の旅 その1
- 一人
- 1人
- 史跡・歴史
信濃の国府の場所は今もって不明である。記録では筑摩郡(現松本市)に所在していたことは間違いないが、それ以前に小県郡(現上田市)にあったのではないかと言われている。今回は、その上田市の名所・旧跡をめぐり、科野の国造、国府について考えてみた。第1回は千曲川右岸の上田盆地の河岸段丘の上を回ってみた。上塩尻神社(万葉歌碑)〜大蔵京古墳(県下最古級の方墳)〜二子塚古墳(東信地方唯一の前方後円墳)〜大星神社〜山家神社(真田神社)〜赤坂将軍塚古墳(不思議な開口部を持つ円墳)〜信濃国分寺跡(資料館)〜信濃国分寺〜科野大宮社。
長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代
- 3947views
- 6参考になった!
- 0コメント
- 1日目2018年7月31日(火)
-
10:00-11:00
旧北国街道から上塩尻神社に上る入口。兎に角狭い道が迷路のようになっており、車の駐車場はない。酒造会社か上田紬の工房でお借りできるかなあ。私はこの入口近くの家の駐車場に止めさせていただいた。明治から昭和初期にかけて上田・小県地方は養蚕・製糸業で財をなし、農家も土蔵作りの大きな家が多く養蚕を行っていた。今や、大きな土蔵をもてあましている方が多いようだ。
-
10:00-11:00
上塩尻神社。麓から歩いて10分ほど。見晴らしのいい場所にある。
-
10:00-11:00
上塩尻神社の由来。防人の歌の作者「信濃国造小県郡他田舎人大嶋」により創建されたと伝えられた神社で、水害で他田舎人の旧跡古墳等が流出したため、江戸時代になり現在地に遷座されたよう。諏訪神夫婦を祭神とする。現在、山の中腹にあるがもっと千曲川寄りの平地にあったようだ。他田舎人大嶋の旧跡・古墳も流されたとしている。
-
10:00-11:00
上田市上塩尻神社
上塩尻神社社殿左手の覆屋の中に万葉歌碑がある。「韓衣 裾に取りつき泣く子らを 置きてそ来のや 母なしにして」(信濃国)国造小県郡他田舎人(おさだのとねり)大嶋 巻20-4401 。内容は、母のない子を置いて防人のため旅立つ父親の心情を綴ったもの。信濃国の防人の引率する役人が防人の歌12首を進講したが大伴家持は3首を載せた。作者の「国造小県郡他田舎人大嶋」の「他田舎人」とは30代敏達天皇の「他田宮」に仕えていた舎人などが、その後姓名としてもらったよう。「他田」を名乗っても血族的な同族ではないよう。
-
11:00-12:00
大蔵京古墳に上がる入口。通称上田バイパスに大きな古墳の案内看板が出ているので古墳に興味がなくても知る人は多いだろう。鳥居周辺には駐車場がないので左手の農道を上がると神社の上部まで行ける。神社は「豊秋霧原埜神社」。古墳は境内の南西側。
-
11:00-12:00
豊秋霧原埜神社拝殿。拝殿は再建されたようで簡素。以前は立派な茅葺きだったようだが、昭和12年8月16日、出征兵士の壮行会を行っていた際、松の大木が倒れ拝殿の屋根等は壊れたものの村民にけがはなく、「身代わり八幡宮」として絵葉書まで作られたようだ。
-
11:00-12:00
豊秋霧原埜神社本殿。松の倒木では本殿は壊れなかったよう。東信地方の神社の本殿はこれと同じように小さいながらも技巧をこらしたものに覆屋を置く様式が多い。
-
11:00-12:00
大蔵京古墳
上田市秋和にある長野県で最も古いとみられる方墳。頂部に日露戦争忠魂碑が建てられている。日露戦争で殉難した方2名の他、出征された方の名前が50名近く刻まれている。防人と同様の嘆きが戦の度に繰り返された。ここからは古代東山道が見えていたはずである。「亘理駅(わたりのうまや)」がこの近辺にあったとされている。
-
11:00-12:00
大蔵京古墳案内板。上田市指定記念物。東信地方の最古の古墳で長野県下最古の方墳としている。長さ32-35mの方墳。表採された土師器は4世紀末から5世紀前半と推定されている。大和政権が在地の首長を「国造」としたのは6世紀になってからだから、この古墳の被葬者は「国造」が作られる前の豪族か。
-
11:00-12:00
二子塚古墳
上田バイパスを小諸方面に進み新田交差点を右折した左手に二子塚古墳がある。駐車場がないので、右手の大星神社に置く。ここに古墳があることは多くの人が知っているが、東信地方で唯一の前方後円墳であることを知っている人は少ないだろう。東信地方もたくさんの古墳があるがほとんどが円墳らしい。
-
11:00-12:00
二子塚古墳の石碑。右側の石碑には「當二子塚は崇神天皇の朝に信濃乃国造となられし神武天皇の曽孫建五百建命(たけいおたけのみこと)の古墳と言い伝えられ・・・大正13年長野県は貴重・・保存物に指定・・」(昭和8年4月 二子塚保存委員会建)としている。「古事記」では、神武天皇の王子の神八井耳命(かんやいみみのみこと)が科野国造の祖であるとしている。更に「先代旧事本紀」の「国造本紀」では崇神天皇(10代)の時代に神八井耳命の孫の建五百建命が初代科野国造に任命されたとしている。また、古代皇族系図等では孫ではなく4世孫とも。いずれにしても、この古墳が6世紀前半から中頃の築造とされており、大和政権とのつながりが推定される古墳ではある。培塚5基があったことなどからもこの地域の豪族(首長)であっただろう。円筒埴輪片多数が出土している。桐原健は「横穴式石室を内蔵し、人物埴輪を繞らしている前方後円墳は、飯田市以外では箕輪町に松島王墓、下諏訪町の青塚古墳と上田市二子塚古墳だけ」とし松本平や善光寺平の古墳との違いを述べている。
-
11:00-12:00
二子塚古墳
二子塚古墳案内板。東信地方唯一の前方後円墳。埴科、更級、伊那郡に次々と巨大な前方後円墳がつくられた中で、大和政権と関係が薄かったと思われるくらい小県・佐久郡には前方後円墳が作られなかった。かつて周濠もあり、培塚(ばいちょう:家臣などの小さな塚)も5基ほどあったようだ。
-
11:00-12:00
二子塚古墳。後円部の頂部に建てられた秋葉神社。中央奥、前方部には二子明神の祠がある。前方部も後円部も新たな石垣を積まれたりで原型をとどめていないよう。しかし、古墳の周囲のケヤキなどの木は古木で幹回りも太く、隣の大星神社の社叢に比べても格段に歴史を感じさせる。
-
12:00-13:00
大星神社
二子塚古墳と地続きだったらしい大星神社。祭神は事代主命と諏訪大社の二神(建御名方刀美命と前八坂刀売命としている)。式内社ではないが、広大な境内と鬱蒼とした社叢を持つ。
-
12:00-13:00
大星神社拝殿に貼付されたもの。第65代花山天皇が行幸啓され勅額三面を下賜したよう。神社の由緒(石碑、木製)に記載されていたが、薄くなっておりこちらの方がわかった。
-
12:00-13:00
JA信濃うえだ営農センター
JA信濃うえだ農産物神科集荷場に併設された直販センター。食事処「しなの木八日堂」もある。出荷が始まった美味しそうなもも1箱と昼食用のおやきを購入。信濃は古くは「科野」で、今でも更級、埴科、豊科など「科」がつく地名が多いが「神」がつくのはここ神科(かみしな)だけだ。しかし、明治になってつけられたもの。神川(かんがわ)の中流部で下流部には神川村もあった。遠く「四阿山」(あずまやさん)を源流とする神川はまさに神の川であった。
-
13:00-14:00
上田市真田町長にある式内社山家(やまが)神社。旧真田町は古代の小県郡山家郷だ。群馬県との県境に聳える「四阿山」を崇敬していた山家郷の人々は里宮としてこの神社を創建したよう。真田氏が崇敬した神社であり、大河ドラマの影響もあり訪れる人も多い。
-
13:00-14:00
山家神社由緒。祭神:大国主神、伊邪那美神、菊理姫神 相殿:日本武尊、神八井耳神。古事記中巻神武天皇では、王子の「神八井耳命(かんやいみみのみこと)」を科野の祖としているが、山家神社の相殿で祀っている。由緒では「神八井耳神(かむやいみみのかみ)」としている。
-
13:00-14:00
山家神社の本殿の裏まで回る方は少ない。本殿裏にある男石。子安社をはさんで女石もある。木の洞にある女石の方がなかなかのものだ。男石の前にばらまかれた白石を女石のハート型に入れると子宝に恵まれるよう。伊弉諾命、伊弉冉命から始まる神話は重要なことだ。
-
13:00-14:00
山家神社里宮から奥宮のある四阿山(あずまやさん)。鉄塔の直ぐ右上の嶺。群馬県との県境。群馬県側では「吾妻山(あがつまやま)」と呼んでおり、その麓は今でも吾妻郡である。
-
13:00-14:00
真田神社
山家神社の脇にある真田神社。上田城の中にある真田神社の元の神社。
-
14:00-15:00
赤坂将軍塚古墳
東信地方は古墳のほとんどが円墳であるが、中で特異なものを一つ見学。上田市殿城の赤坂バス停を100m位上った右側に赤坂将軍塚古墳がある。上田市内にある横穴式石室の中では最も規模が大きいもので石室構造もよく残っている。開口部上部にもう一つ灯り取りのような開口部がある。
-
14:00-15:00
赤坂将軍塚史跡案内板。信濃国分寺資料館の冊子では6C末〜7C初の築造としている。神川水系は上田市内で一番の古墳の集積地で100近い古墳があったが、その多くが破壊され田畑となっている。
-
14:00-15:00
赤坂将軍塚開口部。南西15度方向に開口している。上部に明かり取りのような開口部がある。
-
14:00-15:00
赤坂将軍塚羨道部から玄室を見る。玄門幅2.35m、奥行5m、高さ2.9m。外は35度を超す暑さであったが中はひんやりしていた。底部は湿っており緑色は苔か。高さがあるので非常に大きく感じた。
-
14:00-15:00
玄室天井部の巨大な石。崩落防止かコンクリート様なもので固めたか。経済力のある者が競って古墳を造っていった時代のようだが、それにしても巨石の運搬をどうやったのか。
-
14:00-15:00
玄室内部より開口部を見る。玄門(開口部)の上に明かりとりのようなものがあり、「千曲川古墳散歩」(著者:相原精次・三橋浩)では、アイルランドのニューグレンジ遺跡のように冬至の日に太陽が玄室奥をさすのではないかとしている。これまであまり話題にならなかったようだが冬至の日に再訪したい。山梨県北杜市の金精遺跡でも冬至の夕日が甲斐駒ヶ岳の山頂に沈むといわれ、奥穂高岳山頂の穂高神社嶺宮から冬至の日の出が鉢伏山(その先には諏訪湖)から登るなど、縄文時代から近世まで太陽への祈りは続いてきた。世界中の遺跡にも見られるし、天照大神を奉ずる日本でも当然だ。
-
14:00-15:00
赤坂将軍塚古墳。開口部上部の明かり取りのような部分を再度撮影するため訪問。(8/5)
-
14:00-15:00
8/5 12:07 灯り取りのような部分からの太陽光線が羨道部に写っていた。冬至の南中であれば玄室の最深部に当たるような気がする。開口部には蜘蛛の巣がたれていた。
-
15:00-16:00
東信地方で発掘された旧石器時代からの遺物や信濃国分寺跡発掘関係資料がある。上田市下之郷の「他田塚古墳」の石室模型もある。「他田氏」は信濃国造の系譜とされている。
-
15:00-16:00
信濃国分寺跡。奈良時代、聖武天皇の詔により全国に作られたもの。国分寺は国府のそばに建てられたことから、この付近に信濃で最初の国府があっと考えられているが特定には至っていない。条里制遺構が発掘された古里地区ではないかと推定されている。
-
15:00-16:00
信濃国分寺に並んで北西側に信濃国分尼寺跡が発掘された。国分寺と国分尼寺が並んでいるのも全国的にも珍しいらしい。
-
16:00-17:00
1197(建久8)年、源頼朝の命で復興したといわれる現在の信濃国分寺(天台宗)。信濃国分寺跡から国道18号をはさんだ反対側に仁王門がある。ここから参道が続く。
-
16:00-17:00
信濃国分寺本堂。薬師堂ともいわれている。県宝。善光寺に似ている。参道の両側には蓮の大鉢が並び、丁度見頃だった。朝の方が咲いているらしい。
-
16:00-17:00
信濃国分寺三重塔。室町時代に建立された国分寺三重塔(国重文)。かつては国宝であったが再建されたため重文に格下げ。元の心柱が塔の前に建てられている。上田地方には国宝を含めた三重塔が多く、どれも見応えがある。
-
16:00-17:00
信濃国分寺境内の池や裏の田にハスが植えられており、7月中旬から8月中旬までが見頃。ハス以外にも、ハンゲショウ、ミソハギ、フジバカマが花を咲かせている。フジバカマの蜜を好む渡り蝶「アサギマダラ」も8月下旬から9月下旬に飛来するよう。
-
16:00-17:00
信濃国分寺から上田市街地に行く参道。信濃国分寺は別名「八日堂」ともいわれ、1月7日から8日に「八日堂」縁日が立つ。ダルマを売るが「蘇民将来護符」を求める人が多い。蘇民将来護符は京都の八坂神社などスサノウ(牛頭天王)と縁の深い寺社で頒布され、紙札、木札、茅の輪、ちまきなど、さまざまな形状・材質のものがあるらしるらしいが、八日堂縁日ではドロヤナギの木で作られた六角形のこけし型である。
-
17:00-18:00
上田市常田にある科野大宮社。信州大学繊維学部近くだ。信濃の古名「科野」を冠していることから科野の総社であったとしている。入口の石灯籠脇に社号標より立派な由緒を刻んだ石碑がある。明治22年に建てられた大きな漢文の石碑を昭和18年に平仮名交じり文に変えられたよう。「大勲位彰仁親王篆額」に「科野国造建五百建命が大己貴命・事代主命を祀る社として創建・・・」とある。
-
17:00-18:00
神社の最近の由緒はないが社叢を天然記念物とする案内板に「信濃国府の総社であったかとも思われる」としている。上田市の「国府」も「総社」も確証はない。
古代科野(信濃)の国府・国造をさがす上田市の旅 その1
1日目の旅ルート
メタボ大王さんの他の旅行記
-
2023/9/21(木) 〜 2023/9/22(金)
- 家族(子連れ)
- 6人〜9人
娘夫婦から9月生まれの私達夫婦の誕生日祝いに東京ディズニーランドとディズニーシーへ招待された。3歳...
666 6 0 -
2023/8/5(土) 〜 2023/8/6(日)
- 家族(子連れ)
- 6人〜9人
第70回戸田橋花火大会と第64回いたばし花火大会が4年ぶりに同時開催された。板橋に住む娘夫婦に誘...
423 2 0 -
2023/7/9(日)
- 友人
- 3人〜5人
善光寺縁起を記した「扶桑略記」の変遷の中で、「推古天皇10年(602)4月8日、秦巨勢太夫に信濃国へ請...
146 0 0 -
2023/5/17(水)
- 夫婦
- 2人
ブランド薬師を巡ってから真光寺ループ橋を上がり浅川ダム展望広場で浅川ダムを見る。紆余曲折を経て完...
654 2 0
みんなのコメント(0件)
投稿する
投稿に際しては、必ず観光ガイドご利用規約をご確認ください。
閉じる皆様がより快適にご利用いただくための「投稿上のルール」や、
投稿内容の利用に関して記載しております。
さらに表示する