メタボ大王さんの長野県の旅行記
長野県内最大の古墳:森将軍塚古墳をめぐる
- その他
- 6人〜9人
- 史跡・歴史
長野県内最大の古墳:森将軍塚古墳(千曲市、長さ約100m前方後円墳、4C)を訪れシナノ(科野)の始まりを考えた。信濃(科野)の名前の由来は諸説あり、「科の木」、山国の「級坂(しなさか)」、段差の古語の「科」や「級」などである。その「シナ」がつく更級・埴科郡が古墳時代から奈良・平安時代に一番栄えていただろうことは「郷」や式内社の数からも推定できる。古墳時代中期(4〜5世紀)に千曲川両岸丘陵地に大きな前方後円墳が次々に築造され、まさに「シナノ(科野)」の中心で古墳は王墓とも比定されている。その経済力を支えたのは何か。千曲川の自然堤防の遺跡や後背地の湿地帯を開拓した弥生時代の条里水田址の発掘により、それが「米」だったことがわかる。森将軍塚古墳の石室から出土した三角縁神獣鏡の破片からヤマト王権やそれを支えた豪族との繋がりも推定されている。周辺や尾根づたいに7世紀までに築かれた円墳は13基で子孫とみられている。また、古墳の裾や前方部には小さな石棺64基、埴輪棺12基が埋葬されており古墳の被葬者に仕えていた者とみられている。小さな石棺は縄文・弥生遺跡からも見つかる組合式箱形石棺なので、古墳だけが新たな墓制として築造されていることがわかる。
長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代
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- 1日目2018年3月24日(土)
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12:00-13:00
県立歴史館での親子映画会を観るため従兄弟やその子供・孫達などがこちらで集合昼食。
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13:00-14:00
長野県立歴史館で妻達は親子映画会を鑑賞。私は館内を観覧。長野県の古代から現代までの歴史を知るにはやはりここだ。動くナウマンゾウもあり子供から大人まで楽しめる。
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13:00-14:00
科野の里歴史公園のおまつり広場から見る森将軍塚古墳。長野県内最大の古墳だが尾根の頂上にありここからはその巨大さがわからない。
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13:00-14:00
森将軍塚古墳に登る前にやはり古墳館を見る。発掘の経過、出土品、日本で最大級の竪穴式石室の実物大の精密模型などがあり、シナノの王墓であることがよくわかる。盗掘用の穴から覗く設定も面白い。伝説の塚泥棒がいたが、盗まれた遺物は今どこに。
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14:00-15:00
古墳へはバス道路である「古代の道」と2号墳を見てから行く「森の小道」のコースがあるが今回は森の小道を。ここから左に山道を登る。
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14:00-15:00
麓からゆっくり登り20分くらいで2号墳となる。森将軍塚古墳の周囲にある円墳の中で最大のもの。この先は急斜面となるが、岩盤の上にしっかり築かれ崩壊しない。林の先に見えるのは倉科地区。
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14:00-15:00
2号墳案内板。将軍塚の周囲には13基の円墳が築造されており、楕円の後円部の先から尾根づたいに6基の円墳が築かれた中の一番先が2号墳。組合式箱形石棺には男女2体が納められ古墳の裾には埴輪、土器が置かれていた。森将軍塚古墳(4C)の次に5世紀に築造されたもので子孫と考えられている。直径18m。円墳は7世紀前半まで作り続けられている。
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14:00-15:00
2号墳から森将軍塚古墳の間には5基の円墳があるようになっているがよくわからない。2号墳のようにもっと高さがあったのだろうが、封土が崩れてしまっている。左に崩れた石がある。山の尾根の傾斜に連続して古墳が築かれた様子は、韓国高霊(大伽耶)の池山洞古墳群にも似ている。県内の古墳群の多くが破壊されたり自然の山のようになってしまっているが、森将軍塚も発掘当初は雑木林だったよう。整備、維持管理には億単位の費用が必要のようである。
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葺き石等で整備された森将軍塚古墳の後円部。後円部は二段になっている。基礎は大きめの石垣でその上は葺き石。圧倒される量だがほとんどは有明山の石英斑岩で細かいものは千曲川の川原石のよう。
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14:00-15:00
前方部への階段。前方部は二段になっている訳ではない。下段のように見えるのは山の斜面を平らにした場所。
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14:00-15:00
古墳の周囲には小さな墓が76基見つかり、この内写真のような埴輪棺が12基あった。森将軍塚古墳の被葬者に仕えていた者達の墓とみられ後に埋葬されたもの。写真は4号埴輪棺。
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14:00-15:00
埴輪棺の位置と4号埴輪棺の状況。埴輪棺は、前方部の頂きに4基、東側のくびれ部裾に6基、西側のくびれ部裾に1基、後円部背面裾に1基の合計12基がある。墳頂に樹立していた円筒埴輪の転用のよう。
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14:00-15:00
前方部から後円部を見る。周囲に埴輪が配置されていた。埴輪の形は、壺形、朝顔形、家形、円筒形などがある。
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14:00-15:00
前方部の案内板。頂の東両側に竪穴式石室、中央南に配石遺構がある。後円部に近い3号石室からは剣、管玉、ガラス小玉が副葬品として出土している。シナノの大王に一番身近にいた女性か。
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14:00-15:00
後円部頂上。頂上は長方形のような形だが、裾を含めた形は長楕円形である。後円部の中心線は前方部の中心線から右に12.2度屈折しており地形を目一杯利用したよう。
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14:00-15:00
後円部の竪穴式石室の位置を示す。石室の向く方向は北東で、生萱(いきがや)という地籍で佐久間象山が砲術の試射をした場所である。湿地帯に生える萱であるが「伽耶」でもある。夏至の日の出方向となる。
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14:00-15:00
後円部案内板。石室は長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mで築造当時では日本最大級。石室は二段に厚く石で敷き詰められ、一番内側は片面を赤く塗られた倉科地区産出の石英閃緑岩の平らな石が持ち送りで幾重にも重ねられている。中心には木棺が置かれていたとしているが、副葬品は盗掘されほとんど残っていなかった。わずかに残っていた破片が三角縁神獣鏡と判明、ヤマト王権とのつながりがあった「シナノの王」との推定がされたよう。前方後円墳で大きな石室ながら巨石を使用しておらず、積石塚といってもいいような内部。わずかに天井に巨石を使用している。
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14:00-15:00
後円部には一段下に張り出し部分があり埴輪が置かれていた。その下に石の段がある。円筒形が多いが朝顔形や壺形も。正面の山裾には千曲川右岸では森将軍塚古墳の次に大きな倉科将軍塚古墳(前方後円、82m、5C後)がある。正面の集落は倉科地区で、古墳の真東となり春分・秋分の日の出方向。右奥の山頂が姨捨からの月見で有名な鏡台山となるが冬至の日の出と一致する。(「日の出・日の入マップ」で検索)
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14:00-15:00
古代の千曲川と埴科、更級。中央を流れる千曲川の自然堤防に集落ができ、天井川のような千曲川に注ぐ支流はその後背地に広大な湿地を作った。弥生時代にここに田が作られた。
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14:00-15:00
後円部墳頂から北方。千曲川右岸。手前が物産館、アグリパーク。田の先は雨宮。江戸時代の千曲川の渡し場。右の山裾に土口将軍塚古墳(前方後円、67m、5C中)がある。古代、右の山裾を流れた川が千曲川に入りきれないで手前の後背地に湿地帯を作っていた。この湿地帯を弥生時代に水田とし、その経済力がシナノの王墓に比定される巨大な前方後円墳を作らせた。大和、河内などの古墳とは比べるべくもないが、信濃では初期・中期に平地に作られた大きな古墳はない。
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14:00-15:00
中央付近を千曲川が右に大きく曲がりながら流れている。千曲川の自然堤防に沿いに集落遺構の屋代遺跡群が発掘された。右手の田は千曲川の後背地の湿地帯で、弥生時代に水田として開拓された。更埴条理水田址として発掘された。現在は水田の宅地化が進んでいる。奥の山は飯縄山、左のとがった雪山は高妻山。善光寺平を一望する場所でシナノの王になった気分になる。
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14:00-15:00
北西方向。左から右に千曲川が流れている。千曲川左岸も自然堤防沿いに住居遺跡、堤防の後背地には条里制水田址が発掘されている。山の中腹には、姫塚古墳(前方後方、32m、4C)、川柳将軍塚古墳(前方後円、93m、4C後)、中郷古墳(前方後円、53m、5C)など王墓に比定される県内では巨大な古墳が造られている。古墳中期では、ヤマト王権の初期の頃のように、各地に豪族がおり、その中から王(首長)に比定される者の王墓を共同で築造したと考えられている。右岸と左岸で王墓が交代で築造されている。
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14:00-15:00
北西方向。手前の埴科郡から中央の千曲川を挟み対岸が更級郡であった。白馬三山など後立山連峰の白い山は古代の人々にとっては神聖な山であっただろう。
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14:00-15:00
雪を残した白馬連峰。左から八方尾根、天狗の頭、白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華山、白馬駒ヶ岳。夏至の日の入が天狗の頭あたりになる。
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15:00-16:00
円墳13基の内の3号墳。前方部と後円部のつながる西側裾にある。封土を取った状態となっている。
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15:00-16:00
3号墳(円墳)の封土を盛った状態図。3号墳からは馬具(轡)が出土している。6世紀の築造とみられている。信濃では5世紀初めころから馬に関係する古墳が次々と築造されており牧場が作られていた。
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15:00-16:00
3号円墳前の案内看板。前方後円墳裾の周囲や前方部墳頂に合計64基の組合式箱形石棺(青色)が埋葬されていた。埴輪棺12基と同様に王と関係が深い者達とみられており、前方後円墳の築造(4C後半)後、5世紀中に埋葬されている。また、3号円墳の近くには大阪府で作られた須恵器の大甕が出土しているが、これも5世紀中頃とみられている。
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15:00-16:00
森将軍塚古墳の全体を眺める。全長約100m、後円部径45m・高さ10m、前方部幅30m、高さ4m。
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15:00-16:00
森将軍塚古墳の平面・断面図。古墳は尾根を断ち切り岩盤の上に築かれており、約8万個の葺石、約200個の埴輪が並べられている。築造には1日約100人で約550日要したとみられている。
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15:00-16:00
信濃での埴科・更級の位置と千曲川を挟んだ遺跡。千曲川は現在の千曲市屋代あたりで大きく曲がり北東にながれている。川の自然堤防には住居が建てられ、支流が合流する後背地の湿地は新田が開発され条里制水田址として発掘された。米の増産による人口増加と豊かな経済力が各地区に豪族を作り、ヤマト政権との結びつきとみられる前方後円墳が次々に作られた。
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15:00-16:00
長野県の古墳の変遷。前期はシナノ全般の各地に一つか二つ前方後方墳が、中期は善光寺平の南部の埴科・更級郡に前方後円墳が、後期は伊那郡(飯田)に圧倒的に多い前方後円墳が築造され、経済力と政治力の変遷がわかる。中期は米が、後期は馬が重要となっている。伊那郡でヤマト王権と結びつきを強めた首長達からやがて信濃の国造・国司の系譜となる。諏訪大社の大祝も。
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15:00-16:00
古墳がある山の裾野に「科野のムラ」がある。長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代中ごろのムラを復元したもの。家、小屋、倉庫、儀式の場、田畑もあった。6月には田植えも行われる予定。
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15:00-16:00
あんずの里物産館
あんずの里物産館でアンズジャムなどをお土産に購入して従兄弟達家族と別れた。
長野県内最大の古墳:森将軍塚古墳をめぐる
1日目の旅ルート
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