メタボ大王さんの長野県の旅行記

森将軍塚古墳と古代豪族秦氏の影を追う
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- 史跡・歴史
森将軍塚古墳を巡る初秋の旅。古墳の被葬者など気になっていた周辺を含めて回ってみた。雨宮の渡し〜雨宮巫日吉神社〜森将軍塚古墳〜有明山将軍塚古墳〜須須岐水神社〜篠ノ井追分宿跡〜軻良根古神社(矢代の渡し)〜川柳将軍塚古墳・姫塚古墳〜長谷寺(長谷神社上社)〜鶴萩古墳〜石川条理遺跡(水田跡)〜治田神社下社・上社〜武水別神社。雨宮坐日吉神社の祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)であり、松尾大社(京都)、日吉大社(滋賀)の祭神で渡来氏族秦氏の氏神である。高速道・新幹線等の建設により千曲川両岸である埴科・更級に条理水田跡が発掘されたことにり、両郡の発展と古墳前中期の大規模な前方後円墳等の築造の経過が見えてきたが、この中心に秦氏系の一族がいたのかもしれない。千曲川左岸の更級郡であった治田神社は秦氏との関係を指摘する説もある。下社(千曲市稲荷山)の社殿は真東を向き、境内から見ると彼岸の日の太陽が鳥居の中央に来るとのことで見たところ、真東に有明山将軍塚古墳(その先に森将軍塚古墳も)がありびっくりした。下社と森将軍塚は緯度が秒まで同じである。地名の稲荷山や八幡宮(武水別神社)なども秦氏との関係だ。また、高句麗氏族「篠井氏」の軻良根古神社、石川条理水田跡など地名の石川・越の名も北陸の「越」である。越は渡来の巨勢(こせ)とも継体天皇の出身地ともされている。弥生から古墳時代の埴科・更級の「シナノ」は、ヤマト王権との繋がりがあった渡来人による湿地帯や扇状地の開墾・灌漑により大規模な水田が開発され、その経済力が巨大な古墳を作ったことが推定される。その中心に秦氏がおり、更に多くの渡来人達が競って入植していた様子が伺える。それは全国的なものでもあったであろうし、1万年以上続いた平穏な縄文から急激な発展と争いの時代となった。
長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代
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- 1日目2018年9月13日(木)
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11:00-12:00
妻女山展望台から見る千曲川と川中島。川幅は600m位だが中州のほとんどが畑となっている。右奥の森が八幡原の武田・上杉の合戦場。この辺は古代では千曲川が縦横無尽に流れていた。その自然堤防上には縄文時代から人が住んでいた。弥生時代になり水田が作られ始め、古墳時代になり千曲川の後背湿地に大規模な条里水田が作られたよう。
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11:00-12:00
古大穴神社
千曲市土口の古大穴神社。この神社の上方に土口将軍塚古墳(前方後円墳、66.7m)があり地区全体が遺跡群だ。神社の名前も古墳がたくさんあることから名付けられたよう。
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11:00-12:00
千曲市土口
千曲市土口地区の家は、沢山川が千曲川に注ぐ場所にあり、水害対策のため高い石垣の家が多い。バス停の標識より高い石垣もある。同じ場所に住み続けることとはこれ位の覚悟が必要かもしれない。遺跡・古墳が多いということは水害の危険より水の恵みの方が豊だったのか。
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12:00-13:00
雨宮の渡し跡。現在の千曲川の堤防から約650メートル程の場所。大きな案内標識等もあるが住宅地の一角でわかりずらい。往事の川幅が想像できる。千曲川を渡るには、「矢代の渡し」か「雨宮の渡し」があり、それぞれ川の変化により場所を変えたらしい。千曲川の自然堤防上にあった。
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12:00-13:00
頼山陽直筆の漢詩「川中島」の石碑。武田信玄と上杉謙信の第四次川中島合戦の時、妻女山に布陣した上杉軍が夜陰に乗じて雨宮の渡しを渡り、川中島八幡原の武田軍本陣を突いたという有名な「鞭聲 粛々夜渡河・・・」の詩。
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12:00-13:00
現在の千曲川のこの付近の川幅が約500mであり、対岸の「矢代の渡し」は現在の堤防近くにあるので、往事の川幅は約1qか。渡しはその時の川の流れにより場所が大きく変更になったよう。弥生・古墳時代の条里制水田もその後の大洪水で土砂で埋まり今日までその姿がわからなかった。
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12:00-13:00
雨宮坐日吉神社
雨宮坐日吉(あめのみやにいますひよし)神社。祭神:大山咋命(おおやまくいのみこと)他6神。大山咋命は山の神でもあり農耕の神でもある。日吉(日枝)神社の総本社である近江の日吉大社、京都の松尾大社の祭神である。いずれも渡来氏族秦氏と関係が深い。平安時代貞観4年3月に「従五位下」に叙せられ、埴科郡の一宮、総社であったともいわれている式外社。秦氏は更級郡にも関係が窺われる。この神社には橋から獅子に扮した人間を逆さ吊りにする奇祭があり有名である。神社から直ぐ東寄りの沢山川に架かる斉場橋である。
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12:00-13:00
佐久間象山が大砲の試射をした場所。千曲市生萱(いきがや)地籍。天井川である沢山川の堤防上に建てられている。千曲川に入りきれない水はこの辺り一帯に溢水したのではないか。
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12:00-13:00
埴科縣神社
千曲市生萱(いきがや)の産土神。「埴科縣」の名前から埴科郡を代表する神社かと思ったが、明治になり村内の四つの神社を合祀したらしい。由緒は不明。「縣」とは「@ 大化前代,大和政権の直轄領。または国造(くにのみやつこ) の支配下の地方組織。みあがた。 A 国司など地方官の勤務地。」(weblio辞書)とあり、森将軍塚古墳の石室がこの地を向いていたことと関係があるかと思ったが。御柱があり諏訪神を奉じていることは間違いない。神社と周囲は非常に綺麗にされており地域住民の厚い崇敬を示している。文殊堂の絵馬には難関高校・大学の絵馬が祈願されていた。生萱は萱が生える場所でもあるが、「伽耶」とも関係があるか。
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13:00-14:00
アグリパーク北方からみた森将軍塚古墳。稲も大部黄色くなってきたが、この辺は田植えも遅いし稲刈りも遅い。北向きの斜面から流れる水は冷たいためか。
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13:00-14:00
地元の農産物や植木、花の販売や食堂がある。パンの販売もあり、チーズたっぷりのフワフワパンが絶品だった。
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13:00-14:00
「科野のムラ」の水田が稔りを迎えていた。古代米ともち米があり11/3の古墳祭りには餅つきと古代米の販売なども行われる予定。
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13:00-14:00
古代稲1 赤米 赤米は冷涼地や湿地帯でも強い米だったが、明治以降作らなくなった。
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13:00-14:00
古代稲3 黒米
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13:00-14:00
古代稲4 紫稲 宮城
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13:00-14:00
古代稲5 対馬赤米 対馬市の多久頭魂神社の神饌米として栽培されていたもの。総社赤米よりも出穂期の芒の赤色が鮮やかとされる。
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13:00-14:00
6 古代稲 アクネモチ
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13:00-14:00
7 赤米○酸 8国司神社 国司神社:岡山県総社市新本には2箇所に国司神社(新庄国司神社・本庄国司神社)があり、それぞれが赤米を栽培している。栽培された赤米(神饌米)は岡山県の重要無形文化財に指定されている
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14:00-15:00
今回も2号墳へ行く山道コース。少し秋の様相。「マムシ危険」の看板もあったが、熊でなければ神の使いとは時々遭遇するのは仕方ない。
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14:00-15:00
森将軍塚古墳全景。シナノの大王の気分。古墳と周辺は良く手入れされている。維持管理に費用がかかるらしい。
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14:00-15:00
森将軍塚古墳から見る北方の水田。千曲川の後背地の湿地帯が弥生・古墳時代に開墾され以後1500年以上営々と稲作が行われてきた。高速道や新幹線の建設がなければ条理水田址は発掘されなかった。
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15:00-16:00
有明山将軍塚古墳
森将軍塚古墳から有明山へ登る途中の尾根にある有明山将軍塚古墳(前方後円墳、32m)。小さいながらも森将軍塚の上方にある。築造は150年位後の4C後半。屋代と篠ノ井の古墳群はそれぞれの地区の首長と推定されるようだがここだけは不明。しかし、社殿が東を向いた治田神社下社の鳥居の真ん中(真東)にこの古墳が当るのを見て驚いた。雑木林がなければ真西の千曲川越しに治田神社の社叢も見えるはずだ。冠着山(姨捨山)は木立の間から覗ける。屋代の方が犬の散歩がてら登って来ていた。
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16:00-17:00
江戸時代の矢代宿、現千曲市屋代の総鎮守の須須岐水(すすきみず)神社。「日本後記」の延暦18(799)年に高句麗渡来氏族「卦婁真老(けるのまおい)」が「須々岐(すすき)」姓を賜り松本の須々岐水神社一帯が比定されているが、こちらの神社も気になった。高句麗氏族で前部黒麻呂(ぜんぶのくろまろ)が村上姓に改姓し、当時の更級郡村上郷(現埴科郡坂城町村上)が比定されているが、屋代の豪族屋代氏は村上氏の末裔との説もある。
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16:00-17:00
須須岐水神社の祭神と由緒。近江の日吉社から大国主命=山王権現を勧請し、山王宮を称していたが、江戸時代に現在の名に改称したよう。千曲川の洪水との戦いを示すように水の神が多い。付近の地名にも杭瀬下(くいせけ)、千本柳、小船山など川に関連した地名が多い。
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16:00-17:00
須須岐水神社
須須岐水神社の「烏帽子岩」。神社より古いとされる磐座。神を招いて祭祀を行ったと考えられている。千曲市屋代地籍の屋代遺跡群は縄文時代から現代まで続く住居跡で、中心にある神社に残された縄文の遺物。縄文時代は山の中との意識があったが、千曲川の自然堤防上に縄文時代から人が住んでおりシカやイノシシの骨も出ている。神社も自然堤防上で近くまで千曲川が流れていた時代もあった。
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17:00-18:00
白塚古墳
千曲市森の「杏の里版画館」の北西隣にある白塚古墳。個人の家の敷地内にある古墳。古墳の多くは個人所有の土地にあるが住居内は長野県内では珍しい。古墳の被葬者の子孫の方に話しを聞けたが1300年以上の代を継いだことが凄いことだ。高さが3mだから人間が立って楽に入ることができる。開口部は南である。人骨も出たらしい。奥に祠が置かれている。
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17:00-18:00
白塚古墳案内板。個人のお宅の車庫と母屋の間にある。勝手に入るのを躊躇していたが、家人が丁度出てこられたので撮影ができた。古墳後期には同様の横穴式古墳が多数築造され、各地に古墳群として残されている。山林に埋もれたり、破壊されたりしているものも多い。
- 2日目2018年9月14日(金)
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11:00-12:00
篠ノ井追分宿跡
北国街道篠ノ井追分宿跡碑。表題の揮毫は「長野県知事西沢権一郎」。裏面に「日本後記」の延暦18(799)年に高句麗帰化人秋足が篠井の姓を賜った旨が刻まれている。高句麗氏族の前部秋足(ぜんぶのあきたり)は「外従六位下」であり篠井氏に改姓帰化した。篠ノ井追分宿は北国街道と北国西街道との分岐点として栄え、明治初期は更級郡の郡役所・警察署が置かれ郡の中心地であった。
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11:00-12:00
軻良根古神社
追分宿を千曲川方向に向かうと堤防の手前に軻良根古(からねこ)神社がある。高句麗帰化人「篠井氏」の氏神だったようで、高麗(から)と古き時代の貴人を現す「禰子」で「唐(高麗)根子」だったが、明治になり改称させられたとのこと。また、地元の伝承では、古代、上田盆地が湖だった頃、ネズミが周辺を荒らしていたので唐(韓)の国からネコを連れてきたところ、ネズミが山を食い破り湖の水が流れたのが千曲川で、ネズミが流された所が坂城町鼠でネコが流された所がこの篠ノ井の地で「唐猫」とのこと。犀川の山清路の岩を砕いた「日光泉小太郎」と犀竜伝説に似ている。地域を開発した苦労を民話として残した。
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11:00-12:00
軻良根古神社
軻良根古神社の社叢。堤防の右側に千曲川が流れており、古来の自然堤防上に神社を建てたよう。欅のようだが幹回りも太いが樹高も半端ではない。右側は北陸新幹線の鉄橋。自然堤防の木が大きくなり神社を建てたのかもしれない。付近の方の話しでは現在の社叢は400年位の樹齢らしい。いずれにしても堤防を補強し下流の塩崎地区を守っている。
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11:00-12:00
矢代の渡し跡
堤防から見る千曲川。北西に流れてきた千曲川が大きくカーブして北東に向きを変える。古来は更に右奥を大きくカーブしていたようだが、現在は軻良根古神社にもろにぶつかってくるようだ。しかしこの場所に対岸の矢代宿に渡る「矢代の渡し」があり、舟で渡したよう。神社の社叢が堤防の補強にいかに役に立ってきたかがわかる。明治になり舟橋ができ、明治天皇が北陸巡幸された際はここの船橋を軻良根古神社の宮司が担いだとも伝えられている。左奥に見えるのが冠着山(かむりきやま。通称:姨捨山)。
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11:00-12:00
矢代の渡し跡
「矢代の渡し跡」案内板。軻良根古神社前にある。
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11:00-12:00
長野市篠ノ井石川の丘陵地にある県下第二位の前方後円墳:川柳将軍塚古墳(全長93m、4C後期)。千曲川左岸では最大の古墳で森将軍塚古墳の次に築造されたと考えられている。麓では石川条理水田跡などが発掘されているが、千曲川と聖川の合流付近でありの後背湿地を新田開発した首長の墓か。
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11:00-12:00
川柳将軍塚案内板。墳丘に葺石がされ円筒埴輪が立てられ、後円部竪穴式石室の内面は朱に塗られていた。銅鏡、銅鏃、筒型銅器などが出土している。前方部にも竪穴式石室があるよう。周辺に陪塚と思われる円墳のような半円の山がいくつかあるが説明はない。森将軍塚が正式に発掘される前はこちらが県下一の古墳であった。
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11:00-12:00
川柳将軍塚古墳から山の尾根を登った所に善光寺平では最古級の前方後方墳:姫塚古墳がある。未調査のため詳細は不明であるが、埴科・更級地区では最初に造られた古墳である。現在松や雑木林で視界がないが築造当時は善光寺平が一望であっただろう。
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11:00-12:00
4C中頃の築造。北信地域では飯山市の勘介山古墳、中野市の蟹沢古墳が同時期の前方後方墳。松本ではそれ以前に弘法山古墳が築造されている。
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11:00-12:00
川柳将軍塚古墳の下にある展望台から千曲川対岸の森将軍塚古墳を望む。(望遠)
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12:00-13:00
長野市篠ノ井塩崎にある真言宗智山派の寺院。金峯山長谷寺。通称、信濃長谷寺。長谷観音とも呼ばれる。本尊は十一面観世音 。日本三所(日本三長谷)と呼ばれる大和・鎌倉・信濃の三大長谷寺のひとつであるとされている。山の西斜面に造られ真東を向く。この寺の東に延びた参道の先で「石川条理遺跡」が発掘された。
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12:00-13:00
長谷寺参道脇のヒガンバナ。(9/23) 寺の案内では開基を飛鳥時代(舒明9年・637)としている。白助(シラスケ)という貧窮孤独な男が両親の供養を祈ったところ、善光寺如来の御霊告を受け大和の国初瀬山に巡礼し、感得した十一面観世音菩薩を当地に祀ったことがはじまりとする。何か善光寺と同じような由来。大和の長谷寺を勧請したようだが、大和の長谷寺は藤原氏が崇敬した寺でもあり、ヤマト王権との繋がりがあった豪族がこの地で寺社を開いたよう。なお、白助はご本尊の霊験により5万石の長者となり、5人の子供に1万石ずつ与え「5万長者」と呼ばれたとのこと。
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12:00-13:00
長谷寺観音堂の南側にある長谷神社上社。長谷寺の大伽藍に比べると簡素であるが式内社である。式内社関連HPでは「祭神は八聖大神で科野国造神八井命の孫。科野国造小長谷氏の氏神社」とするものがあるが、古事記では「神八井耳命」を科野国造や小長谷(おはつせ)造などの祖としている。左の小さい社は「蚕神社」。なお、下社は長谷寺の南東にある。
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12:00-13:00
長谷神社上社。写真だけ撮ってきたが、格子戸の背後に石塔で囲んだ墓石のようなものがある。裏に回らなかったが、長谷観音の案内図を見ると白助翁の墓だったか。長谷神社上社の祭神は正に八聖大神、白助翁そのものなのかもしれない。上社の本殿は墓となる。
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12:00-13:00
長谷観音の案内図。観音堂の左上に長谷神社上社。その背後に白助翁の墓。白助翁なるものは長谷神社の祭神八聖大神なのではないか。善光寺の百済観音を難波の堀江から運んだ本田善光の廟(磐座)が北西の湯福神社にあるのと同じだ。その他、山口社、雷電社などの神社もあるが、長谷神社下社は案内図にはない。
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12:00-13:00
長谷神社上社の脇にある「蚕神社」。科野はその名のごとく山坂多いが、痩せたガレ場でも桑はよく育つ。養蚕・製糸は明治以降の日本の発展にも大きな貢献をし、地元の稲荷山でも財をなした方もいるようだが、長谷神社上社と同じ場所にある「蚕神社」は古い神かもしれない。なお、次に回る治田神社上社がある地域は「桑原」で桑を植えていた場所だ。古代に養蚕技術を広めた秦氏とも関係があるのか。
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13:00-14:00
鶴萩古墳
長谷寺参道北脇にある鶴萩古墳。円墳で土石混合墳。開口部は狭いが中は広い。水たまりに水が落ちる音が反響してびっくりした。
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13:00-14:00
鶴萩古墳
円墳。直径13m、高さ4m。横穴式石室。6世紀後半築造。千曲市森の白塚古墳と同時期頃。古墳後期にはこのような円墳が数多く造られるようになった。被葬者は地区の豪族で、長谷寺・長谷神社の創建・開基と関係する者か。
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13:00-14:00
鶴萩古墳
鶴萩古墳内部から外を見る。長谷寺の参道と同じく東に開口していると思って入ったところ中央左奥に見えるのは鏡台山であった。冬至の日の出方向だ。
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13:00-14:00
石川条理遺跡
石川条理遺跡跡。弥生から古墳、平安、中世、近世までの水田跡。バイパス工事が進められており最後に残った遺構にブルーシートが掛けられている。千曲川の氾濫によると思われる2m以上の厚い砂礫層が見える。中央奥の上田方面からこちらに流れた千曲川が大きく右にカーブする場所。自然堤防の外側でありこの下流で聖川が千曲川に合流しており後背湿地を水田にした場所。鶴萩古墳や長谷神社、長谷寺に関係した氏族が開拓した場所だ。石川条理遺跡と名前が付けられているが地籍は「越」となっている。
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14:00-15:00
治田神社下社
治田(はるた)神社下社拝殿。治田神社の由緒では、近江の豪族熊田氏が治水、開墾、稲作技術に功績があり「治田の連」の称号を与えられ当地に赴任し、治田山中腹に第9代開化天皇の第二皇子「彦坐命」(ひこいますのみこと)を祭神として祀ったとのこと。第21代雄略天皇の時代とも26代継体天皇の時代との説などある。また、土佐の長宗我部氏の出自の辞典では、「山城国稲荷神社の禰宜の祝であった秦伊呂具公の子孫が信濃国更科郡小谷郷(長野県千曲市)に移り、稲荷山に治田(はた)神社を祀った。鎌倉時代初めごろ土佐国長岡郡宗部郷(高知県南国市)に移り、子孫は地名をとって長宗我部氏を称した」とある。現在の治田神社のある稲荷山の地名とも合う。
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14:00-15:00
治田神社下社
治田神社下社社殿は真東を向いている。お彼岸にはこの鳥居の中央奥の山から日の出があり、前の池(治田池)に映った太陽の光が本殿の大鏡を照らすよう。神々しい日の出写真は稲荷山公民館と桑原の「竹林の湯」に展示されているとのこと。更に驚いたことに中央の山の鉄塔の下が有明山将軍塚古墳となる。また尾根を降りた所に森将軍塚古墳、更に東には倉科将軍塚古墳もある。神々しい太陽を拝むと同時に三つの古墳を拝むことになる。ちなみに緯度は治田神社下社と森将軍塚古墳は北緯36度31分52秒で全く同じ。有明山将軍塚は36度31分48秒で僅か南。倉科将軍塚は36度32分11秒で少し北。治田神社は稲荷山の街の一段高い場所にあるが、千曲川が流れてくる方向であり、古来は自然堤防を越えて直ぐ下まで流れることもあったのではないか。治田池は桜の名所でもあるが灌漑用のため池でもあったのか。
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15:00-16:00
小坂山
小坂山中腹から見る治田神社下社の社叢と治田池。お彼岸の日の出の太陽が治田池に反射して本殿の大鏡を照らすという神秘。
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15:00-16:00
小坂山
小坂山中腹から見る千曲市八幡地区と更級地区。千曲川の対岸は小船山、千本柳である。名前からして千曲川の自然堤防か中州であっただろう。北国街道は左の山裾を通っていた。左下の林は武水別神社(八幡宮)の社叢だ。
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15:00-16:00
小坂山
小坂山中腹から見る千曲市屋代地区。正面の小高い山が有明山。左に尾根を降りた鞍部に有明山将軍塚古墳があり、そこを反対側に降りると直ぐ森将軍塚古墳がある。
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16:00-17:00
治田神社上社
千曲市桑原にある治田神社上社。祭神は彦坐命、健御名方命、八坂斗女命、保食命。武田の影響が強い時期に諏訪神を合祀し諏訪大社と同様上社、下社と呼んだよう。由緒にはない「杵築大神」の境内社があり出雲神も祀っている。
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17:00-18:00
更級郡の総社的神社。式内社。古代はともかく中世からは近世まで八幡神として埴科・更級郡の崇敬を集めた。北国西街道で姨捨の棚田を降りてくるとこちらに突き当たる。街道を拡張して道路にしたので車は必ず大鳥居をくぐらなければならない。屋代の須須岐水神社も北国街道の突き当たりだ。
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17:00-18:00
祭神は武水別大神(治水の神)と石清水八幡宮から勧請した八幡三神(誉田別命<応神天皇>、息長足比売命<神功皇后>、比売大神<宗像三女神>)。八幡宮の宇佐神宮も秦氏がかかわっていた。武士が台頭してからの八幡信仰は秦氏とは関係なく日本的になるが、最初は秦氏の繋がりがあったかもしれない。
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17:00-18:00
広い境内の社叢に心癒やされたが、欅と杉なのか別種類の木が合体したものもありどうしてできたのか。自然にはできないだろうがよくこれだけの大木に育てたものだ。
森将軍塚古墳と古代豪族秦氏の影を追う
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