メタボ大王さんの長野県の旅行記

ヤマト王権の先兵天孫系阿智族と善光寺の開祖本田善光の影を追う
- その他
- 3人〜5人
- 温泉
- 史跡・歴史
- 自然
- グルメ
昼神温泉で松茸三昧と古代信濃の南の玄関であった南信濃を巡る旅。美濃から神坂峠を越え園原、阿智を経て麻績(現飯田市)に至る古代東山道。越後から信濃へ入ってきた出雲系の諏訪族に対抗すべくヤマト王権の先兵的役割を果たすため南信濃へ送り込まれた阿智族。馬の生産を背景に富みを蓄え多数の前方後円墳を造営、その後仏教の伝播により寺を造る。元善光寺、韓郷(からくに)神社、飯田市古墳群、阿智神社、園原と神坂神社などを回り、馬や仏教とともに信濃に入ってきた氏族を追ってみた。善光寺縁起の物語はここから始まる。
長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代
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- 1日目2018年10月1日(月)
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11:00-12:00
飯田市座光寺の元善光寺近くの高岡第一号古墳。高岡古墳群の主墳。後円部墳頂が高岡神社となっている。付近には国指定遺跡で古代の伊那郡の役所(郡衙:ぐんが)があった恒川官衙(ごんがかんが)遺跡が発掘されている。信濃でも郡衙が推定できたのはここだけ。
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11:00-12:00
墳丘長72.3m前方後円墳。6世紀前半築造。横穴式石室。入口両脇の石を立てる構造や、壁の一段目が平石を立てている構造に特徴があり九州や朝鮮伽耶との関連が指摘されている。人物埴輪、形象埴輪、玉類、金環、馬具。特に馬具が特徴であり、馬の埋葬も多いこの地方の特徴。
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11:00-12:00
高岡第1号古墳
古墳の規模に比べて石室は小さい。石室5.6m、高さ1.7m。開口部は少し狭く傾斜になっていた。昨夜の台風通過の影響で周辺は柔らかい土であったが、内部は湿ってはいるものの水はたまってはいなかった。玄室正面の巨岩は平石かはわからない。朱の彩色がまだ残っている。小さな土人形のようなものが置かれていた。
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11:00-12:00
玄室右側面の朱色が一番鮮やかである。巨岩に数字が書かれているが、この古墳の石室そのものが明治の頃から蚕種の育成に使用していたらしい。
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12:00-13:00
飯田市座光寺にある元善光寺。山号は定額山。元善光寺と名付けられる前は坐光寺(ざこうじ)と呼ばれていた。本尊は善光寺如来。古くはこの地を麻績の里(おみのさと)と呼んだ。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江で一光三尊の本尊を見つけて持ち帰り、自宅の臼の上に安置したところ臼が燦然と光を放ったことからここを「坐光寺」としたとされる。 その後、皇極天皇2年(643年)、勅命により本尊は芋井の里(現在の長野市)へ遷座され、善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺は元善光寺と呼ばれるようになった。遷座された本尊の代わりに勅命によって木彫りの本尊が残され、また「毎月半ば十五日間は必ずこの故里(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されたことで、「善光寺と元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣り」といわれている。(飯田市観光協会「善光寺の由来」)
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12:00-13:00
元善光寺本堂とご開帳の回向柱。長野の善光寺と同じく数えの7年毎、丑年と未年にご開帳が行われる。左手の回向柱はその時に前立本尊と結ばれていたもの。お戒壇巡りは無料である。「難波の堀江」の場所については奈良と大阪に諸説がある。その一つが大阪藤井寺市の小山善光寺。本田善光が難波の堀江で見つけた一光三尊仏を河内小山の隆聖法師の庵に泊まり、法師が三日三晩念仏したところ、一光三尊仏が二体になったのでその一体を本尊にしたとのことで「日本最初善光寺」の寺号標がある。また、小山善光寺の近くの藤井寺に「辛国(からくに)神社」があり「長野神社」を合祀している。飯田市座光寺の「元善光寺」も天竜川を挟んだ対岸の喬木村に「韓郷(からくに)神社がある。
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12:00-13:00
宝物殿には霊宝座光の臼などがある。西国三十三観音霊場お砂踏みを合わせ拝観料は400円。座光の臼はご本尊が長野に移る前41年間安置しており、その後も臼から光明が輝いていたので「座光の臼」としたよう。臼はぞばを曳いた臼で、この頃信濃にそばがもたらされたとの説もある。「日本三代実録」(866年)に信濃に5つの定額寺がありその一つが伊那郡寂光寺であり、「寂光寺」が「坐光寺」になったとの説もある。伊那郡衙があったこの地に官寺に準じた定額寺があっても不思議ではない。座光寺付近には奈良時代と推定される古瓦の遺跡や窯址が多数出土しており、信濃での仏教先進地であったことを示している。
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12:00-13:00
麻績神社
麻績(おみ)神社の「伊那一」とされる一の鳥居。座光寺地区の産土神だが天正年間の創建のよう。古代伊那郡には「麻績郷」があり、現在でも「麻績の里」としている。上代では「使主」(おみ)を渡来系氏族の姓として、また、敬称としていた。渡来氏族の東漢(やまとのあや)氏の祖とされる応神朝に帰化した「阿智使主(あちおみ)」氏がおり、「使主」(おみ)が「麻績」(おみ)になったのではないかと考えた。
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12:00-13:00
麻績神社の大鳥居を入ると旧座光寺麻績学校校舎の建物がある。県内に残る小学校校舎では最古とされ、一階が歌舞伎舞台として造られている。
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12:00-13:00
旧座光寺麻績学校校舎(舞台校舎)にある「麻績の里 舞台桜」。ハンヤエベニヒガンシダレで飯田市天然記念物。樹齢は350年。
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12:00-13:00
石塚第一号墳
円墳(21.8m)。開口部は南面。
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12:00-13:00
石塚第一号墳(麻績の里石塚桜)
舞台校舎の奥にある「麻績の里 石塚桜」。石塚第一号古墳の墳丘に植えられているシダレヒガン。
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12:00-13:00
石塚第一号墳
石室長8.5m以上、玄室長7.4m以上、幅最大2.5m、高さ最大2.5m。南面しているので陽が入り乾いている。桜の根は全く垂れていない。円筒埴輪が出土。羨道部と玄室は直線であり無袖式石室。東海地方と同じ形の石室のよう。
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12:00-13:00
麻績神社
麻績神社拝殿。祭神は建御名方命と誉田別命(ほむたわけのみこと)。鈴の緒がある右側が「麻績八幡宮」、左側が「麻績諏訪社」。八幡宮を上位にしている。応神期に帰化した阿智使主の一族が南信濃に入っていたとすれば誉田別命(応神天皇)を祭神とすることは当然だ。元善光寺の「本多善光」は「誉田」から付けられたとの説もある。平安末期に創作された善光寺縁起により全国的に伝播した善光寺信仰により、元善光寺だけでなく「麻績の里」の神社も必要とされたのかもしれない。
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12:00-13:00
麻績の里
麻績の里から東の喬木村方向を望む。天竜川を挟んで丘陵地が続く。中央の谷間に喬木村役場や韓郷(からくに)神社がある。山の向こうが中央構造線の谷となり南アルプスが続く。伊那谷は古代、ヤマト王権のシナノ進出の窓口として馬により発展したことが、古墳中期から後期にかけて大きな前方後円墳をこの地方が独占したことや馬具の副葬、馬の埋葬状況が示している。その後仏教の伝播とともに寺院が造られる。
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13:00-14:00
韓郷神社
喬木村の韓郷(からくに)神社。役場前を進みイチゴ農園から左折して丘陵地の坂を登ると韓郷神社となる。鳥居は下方にある。車の駐車は神社前に1台分しかない。屋根付きの鳥居。参道階段左手に御神木の喬木村一の大杉。
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13:00-14:00
韓郷神社
拝殿。社殿は小さいが社額は大きい。「韓郷(からくに)」と明らかに渡来系の名前であるが、「社誌」では渡来系ではないかとするものの確証がないよう。長野県内では「からくに」を称する神社はここだけであるが、大阪の藤井寺の辛国神社には言及していない。藤井寺の辛国神社の祭神は「饒速日命(にぎはあやひのみこと)」などで物部氏の祖だ。物部氏の没後、その一族の辛国(韓国)連が祭祀を司るとしている。河内での港湾開発、新田開発から信濃に手を伸ばしていた物部氏の一族として辛国(韓国)氏がこの地に来ていたのか。
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13:00-14:00
韓郷社
韓郷社由緒。唐土宮と呼ばれてたり韓郷大明神となり、明治維新後に韓郷社となる。祭神は須左之男命と誉田別之命(応神天皇)。社誌によれば若宮大鷦鷯命(仁徳天皇)も祭神としている。新撰姓氏録では、応神朝に阿智王が母・妻子や七姓の漢人を率いて帰化、天皇より「阿智使主(あちおみ)」の名を与えられ大和国檜前郡郷を賜っている。仁徳朝では、離散して高麗(高句麗)・百済・新羅などに留まっていた阿智使主の「本郷(もとつくに)の人民(たみ)」が召喚され来朝したとある。そして人が増え居地が狭くなったため諸国に分置されそれぞれの国の漢人村主(あやびとのすぐり)になったとしている。新撰姓氏録逸文では東漢氏の兄腹(えのはら)氏族に「韓国忌寸(からくにいみき)」がいる。いずれにしても、応神天皇、仁徳天皇、物部氏となんらかの関係がある一族だ。
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13:00-14:00
韓郷神社
韓郷神社参道から西方の風越山を見る。頂上には白山神社奥宮があり麓の滝の沢に里宮がある。白山信仰が古くからある。信州でも温かい飯田地方は雪も少ないが白山信仰が定着した。
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14:00-15:00
おかん塚古墳
飯田市松尾の「おかん塚古墳」。住宅地の中にあり推定墳丘50mの前方後円墳で、6世紀後半の築造と考えられている。前方部と後円部の両方に石室があったが、現在は後円部のみ残されており、横穴式石室は内部が広い巨石積みで、近畿地方の石室に類似する。
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14:00-15:00
おかん塚古墳
古墳案内。
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14:00-15:00
おかん塚古墳
開口部。開口部分は低く感じるが羨道部が奥に向かって傾斜しているため入口で少しかがむが直ぐ立てる高さとなる。
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14:00-15:00
おかん塚古墳玄室正面。暗いが光を当てるとまず巨岩にびっくりする。
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14:00-15:00
おかん塚古墳玄室奥正面から天井。玄室の高さ3.4m。国指定史跡の飯田古墳群13基の中で一番高い。巨岩と天井が高く、その大きさに圧倒される。上に向かうに連れて空間が狭くなっている「穹窿(きゅうりゅう)=ドーム」型石室である。
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14:00-15:00
おかん塚古墳玄室左側面。下方三段くらいは巨岩を置いてあるが、奥にいく程小さくなる。
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14:00-15:00
おかん塚古墳玄室右側面。こちらも三段くらいは巨岩だが左側面に比べると巨岩の隙間が大きく、間に小さめの石を入れている。
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14:00-15:00
おかん塚古墳天井石。完全にドーム状ではなく大きな天井石が乗せてある。台風の大雨後であったが、石の隙間からいくらか水が染み出ている部分もあるが石の表面は乾燥している。
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14:00-15:00
おかん塚古墳
怖がって中に入らない同行者をせめて開口部に立たせてその大きさを比較する。本来奥の玄室に立たせて比較する予定であったがどうしても入らない。羨道部より玄室が広くなる両袖式であることがわかる。松尾地区には国指定史跡古墳が他に四つあり、また奈良時代の御射山廃寺跡もあるが次回だ。
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14:00-15:00
開善寺
国道151号線の上川路交差点を左折すると開善寺(臨済宗)がある。開善寺は武士建立の禅寺としては伊那谷屈指の古刹。山門が国重文。鎌倉時代に創建され室町時代は信濃最大の禅寺として栄えたが、火災や織田氏の侵攻などで伽藍の大半を消失した。山門は現存する最古の建物で室町後期とされている。県内では善光寺の山門に次ぐ規模らしい。
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14:00-15:00
開善寺境内にある飯田市考古資料館。月曜日で休館。開善寺境内を含む付近には、白鳳時代とも推定されている古代瓦が出土し「上川路廃寺」とされている。飯田地方最初の寺であり信濃でも明科廃寺に次ぐ古さだ。飯田・下伊那地方では寂光寺(元善光寺?)より先にここに寺院が建立されていた。
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14:00-15:00
御猿堂古墳
御猿堂古墳。前方後円墳。墳丘長65.4m。6世紀中頃。墳丘は墓所となっている。前方部から後円部を見る。後円部に横穴式石室があり、南西側に開口している。軸は東南東の冬至の日の出方向。
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14:00-15:00
御猿堂古墳
古墳案内。以前は案内板が開口部にあったようだが現在は川沿いの道路脇にある。近隣の方に教えてもらわなければ案内板もわからず石室へも入らなかった。
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14:00-15:00
開口部。兎に角狭く手をつき匍匐前進のような姿勢でカメラを抱えて入る。飯田市のHPでは墳丘に乗ることはできても石室内には入れないとの案内であったが、墳丘に墓を持つ近隣の方が是非中に入るよう勧めていただいた。
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14:00-15:00
御猿堂古墳
中は真っ暗。石室は全長約13m、高さ2.9m。無袖形。副葬品として、国重要文化財に指定された「画文帯四仏四獣鏡」をはじめ、直刀・刀装具・鉄鏃等の武器や馬具、勾玉・切子玉等の装身具が出土している。ヤマト政権による配布鏡である可能性が高い銅鏡とされる「画文帯四仏四獣鏡」は、開善寺の宝物としてあったが、現在は飯田市美術博物館に収蔵されているよう。
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14:00-15:00
御猿堂古墳玄室左側面か。白っぽい巨岩。照明を持たずに入ったため暗く距離がわからず写真を撮ったため側面に近づき過ぎていた。
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14:00-15:00
御猿堂古墳玄室天井石。経年の汚れか黄ばんでいる。
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15:00-16:00
馬背塚古墳
飯田市竜丘にある馬背塚古墳。国道151号の上川路交差点を飯田市街地方面に進むと直ぐ左に小さな案内看板があり、狭い坂道を登った所に空き地があり左手に古墳が見える。右側が前方部で左が後円部。左の石室は崩落のため立ち入り禁止。右側の石室の前に人がかがんでおりその大きさが比較できる。前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室があり、二つの石室の形が異なる珍しい古墳。
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15:00-16:00
馬背塚古墳
墳長46.4m。6世紀末から7世紀の築造。後円部の石室は細長い形状(無袖式)で東海地方の石室と、前方部の石室はおかん塚と同じ形状(両袖式)で近畿地方の石室と形状が類似する。飯田古墳群の中では最後に造られた前方後円墳と考えられている。欽明天皇の金刺宮に仕え、金刺舎人と称し科野国造になった「麻背君」がいるが、この古墳を比定しているのか。
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15:00-16:00
馬背塚古墳。前方部石室開口部。入口は狭いが羨道部床面が傾斜しているので少し屈めば入ることができる。
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15:00-16:00
馬背塚古墳
馬背塚古墳前方部玄室奥正面。「おかん塚古墳」に比べると巨岩が加工されている。両側の巨岩もドーム状になっているのがわかる。古墳時代最後になり加工技術も進化しており、近畿地域の渡来の土木技術の優れた人達が入ってきていたのか。1500年近い年月を経て全く崩れていない。
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15:00-16:00
馬背塚古墳前方部玄室床。河原石だろうかしっかり敷かれている。最下段の巨石は加工したのか四角になっている。玄室全長6.46m、幅3.3m、高さ3.3m。玄室床面積は20.48uで奈良の石舞台古墳(26u)と比べてもなかなかのものだ。
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15:00-16:00
馬背塚古墳前方部玄室左側面。最下段に厚い平らな石を置いている。
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15:00-16:00
馬背塚古墳玄室右側面。最下段に加工した平らな石を置き、その上に自然な巨石を組み合わせている。シナノ(科野)の大王、国造に相応しい巨岩の古墳だ。
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15:00-16:00
馬背塚古墳前方部石室。天井石は巨石を置いている。古墳上部は竹林や柿の木などであるが、植物の根は全く出ていない。一昨日は台風が県内を通過しこの地方も大雨警報が出ていたが、石と石の間に水が沁み出ているが表面は乾燥している。
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15:00-16:00
馬背塚古墳。玄室から羨道部を見ると両袖式であることがわかる。一昨日の台風の大雨で外から吹き付けたと思われる雨で傾斜した羨道部が濡れている。二人の同行者もどうしても中に入ってこない。羨道部全長5.5m、高さ1.6m。
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16:00-17:00
安布知神社
阿智村駒場にある安布知(あふち)神社。第一小学校の西側。祭神:天思兼命 配祀:誉田別命、須佐男命。式内社に「阿智神社」があるが安布知神社も前宮としていた時代もあるよう。文化元年(1804)に京都の神祇官から「安布知神社宣状」を受けていたが、新羅明神領だったこともあり新羅明神として親しまれてきた。
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16:00-17:00
安布知神社
拝殿。先代旧事本紀では、思兼命は信濃国に降り立ち「信之阿智祝の祖」となり秩父国造の祖となったとしている。
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16:00-17:00
阿智村昼神温泉にある阿智神社(前宮)。国道256号線脇の公衆トイレに車を置き参拝。こちらには「式内 阿智神社」の社号標。温泉に宿泊する場合は宿泊先に車を置いてから参拝しても。
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16:00-17:00
阿智神社前宮拝殿。台風一過で杉の枝葉が落ちていた。社頭掲示板 祭神:天八意思兼命、天表春命 相殿:誉田別命、健御名方命、大山咋命。大山咋命を祀っているところから秦氏一族も関係するか。
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16:00-17:00
由緒書。「先代旧事本紀に高皇産霊尊、兒天八意思兼命、その兒天表春命と共に天降りまし信濃国阿智祝等の祖となる。越後より信濃に跋扈する出雲系諏訪族に対抗する天孫系氏族の尖兵とし信濃の国境を押さえる最重要地点御坂の東麓き来たり駐留し、その部曲の民を率いて阿智地方を中心に伊那西南部一帯の経営開拓にあたった。信濃三大古族の本拠で駒場町鎮座安布知神社と共にその祖先神、守護神を祭る神社。奥宮は阿知川を遡ること2qの地点にある」。日本書紀では応神天皇20年9月、倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖、阿知使主(あちおみ)がその子都加使主(つかのおみ)および17県の自分の輩を率いて来たとある。朝鮮からの渡来人の中で、秦氏が秦の始皇帝の末裔を称していたのに対し、漢の高祖を祖とする氏族が東漢で高祖の子孫に「阿智王」がいる。神社の由緒では「阿智王、阿智使主(おみ)」に言及していないが、岡山県倉敷市の阿智神社は水運交通の要所から宗像三女神を祭神とするものの、由緒では「倉敷の古名は『阿知』であり、当社は倉敷総鎮守の神社である。日本書紀応神記(4世紀)に阿知使主(あちのおみ)が韓国より17県の人達を率いて帰化してきたとあり、阿知使主の一族がこの地に住み着いて、養蚕・絹織・縫製・鉄文化等の先進技術を伝え、広め、大いに栄えたことに由来している」としている。
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17:00-18:00
1年に1度の昼神荘に泊まって松茸三昧。松茸と信州牛のすき焼き。松茸焼き、土瓶蒸し、茶碗蒸し、鯉の洗いがあるが、この後、松茸の天ぷらと松茸ご飯が出た。森林組合の宿で、和室、布団セルフ、共同トイレで普段はとてもリーズナブルな宿。しかし、これだけの松茸料理が出てお酒を入れて1人1泊2食17,000円。安い!
- 2日目2018年10月2日(火)
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08:00-09:00
1年に1度。松茸三昧だけに集まるお仲間とお別れ。野球の落合さんが有名にした昼神温泉。風呂は温度が高く水を入れているが、泉質はなめらかでお肌もすべすべ。来春の花桃の時期にまた来よう。
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08:00-09:00
阿智神社奥宮
昼神温泉から国道256号線を西進して5分位で園原に向かう県道89号線に左折する。阿知川の橋を渡ってすぐ左手に鳥居が見える。阿智神社奥宮となる。こちらは駐車場がある。
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08:00-09:00
阿智神社奥宮
阿智神社奥宮拝殿と石の舞台。祭祀でも行うのか。
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08:00-09:00
阿智神社奥宮
阿智神社奥宮の拝殿右手の元宮、古代祭祀の磐座がある。この山を「川合陵(かわあいのみささぎ)」と呼んで祖神の神霊が永久に鎮まります奥都城処(おくつきどころ=基地)として崇んでいたとのこと。菱形の石の四隅が東西南北になるよう。また、工匠の神として、大工、建具職、細工職等材木を扱う人々に信仰されているとのこと。土着の神を阿智族が祀っているが、倉敷市の阿智神社も同じく磐座を祀っている。
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08:00-09:00
阿智神社奥宮
磐座の東の延長線で南より降りる網掛山と北より流れる清内路山の稜線の接点から冬至の日の出があるとの写真と説明。
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09:00-10:00
天台宗の開祖伝教大師最澄が東山道最大の難所であった神坂峠を越える旅人のために布施屋(無料宿泊所)として、信濃側に廣拯院(こうじょういん)を建てた。現在は信濃比叡廣拯院として比叡山の根本中堂が建てられている。御食事処「門前屋」がある。
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09:00-10:00
伝教大師最澄像。比叡山と同じもののよう。東方を向いている。伝教大師は延暦寺を創建した際、日吉大社を天台宗の守護神(山王権現)としたことから、天台宗、日吉社(日枝、山王)が朝廷と一体となり東国・蝦夷支配を展開して行く。この地を治めた阿智族と共に新たな神仏も入ってきたのではないか。東方に木があり南アルプスは見えなかったと思うが、大師像が見る真東に赤石岳が来る。なお、見えないが真西に神坂神社が位置する。
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09:00-10:00
信濃比叡根本中堂。山門と根本中堂。団体ツアー客が参詣に訪れていた。ヘブンスそのはらの星空ツアーと共にこちらの「星の仏 北辰妙見菩薩」がお勧めのよう。
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09:00-10:00
阿智村東山道・園原ビジターセンターはゝき木館
阿智村(下伊那郡)
園原ビジターセンターはゝき木館。月曜日で休館。しかしトイレは使用できる。更に上の「暮白の滝」や神坂神社等へ行くなら女性はここで利用した方がいい。障害者用トイレもある。営業日には園原の案内や地域の展示、カフェがある。
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09:00-10:00
阿智村東山道・園原ビジターセンターはゝき木館
阿智村(下伊那郡)
園原の里案内板。多くの和歌、源氏物語、謡曲に登場する園原の地。長野県人なら皆知っている「信濃の国」に「尋ねまほしき園原や」と歌われている。しかし、岐阜県境の山奥を尋ねる信州人は少ない。
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09:00-10:00
廣拯院護摩堂(月見堂)。古代の廣拯院跡とされる。本来薬師如来があり薬師堂であるが、古来より眺めがよく月見堂と呼ばれている。
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09:00-10:00
月見堂案内板
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09:00-10:00
義経駒つなぎの桜。エドヒガン。桜の咲いた見事さが物語を生む。義経が金売吉次に導かれ奥州に下向するときに馬を繋いだとの伝説。見事な枝振りからも花を見てみたい。
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09:00-10:00
義経 駒つなぎの桜の案内
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09:00-10:00
月見堂から10分足らずで暮白(くれしろ)の滝となる。街道から少し下った所に滝見台がある。この台から滝に向かって皿投げ祈願ができるよう。お皿は門前屋かはゝき木館で販売している。(1皿100円)
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09:00-10:00
暮白の滝。それ程の落差はないようであるが、滝見台から見るとすいこまれるような感じになる。紅葉の時期は素晴らしい景色となりそう。御坂峠遺跡は旅の安全を祈った祭祀場所で幣、勾玉、石製模造品などが発掘されたが、この滝周辺の投げた皿は後世の人々にどう思われるのか。割れた皿は村で回収するのか。
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09:00-10:00
暮白の滝付近から見る園原の里。この谷間に桃源郷のような園原の里がある。東山道最大の難所、神坂峠を下ると信濃の最初の風景、園原の里。遠く南アルプスの山並みを見て、峠を越えた安堵とこれからの旅の安全を祈らずにいられなかったであろう。現在は「ヘブンスそのはらスキー場」での星空ツアーが人気。南アルプスは左から荒川三山、赤石岳、聖岳、上河内岳。手前中央の山は網掛山。
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09:00-10:00
滝見台の山手にある恵那山トンネルの排気口近くにある橘内(きつない)信高・吉次(園原一統)の墓。排気口建設のため移設したよう。
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09:00-10:00
橘内信高・吉次(園原一統)の墓案内。吉次は金売吉次で、平治物語、平家物語、義経記、源平盛衰記などに登場する伝説的人物。(Wikipedia)福島、栃木などにも墓があるよう。
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09:00-10:00
吉次の墓近くに源氏物語第二帖「帚木」(ははきぎ)の碑文。実際の「帚木」(ははきぎ)は更に神坂神社に向った道から山道を登った場所にある。
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09:00-10:00
「帚木」(ははきぎ)案内板。源氏物語第二帖帚木。巻名は作中で光源氏と空蝉が交わした和歌「帚木の心をしらでその原の道にあやなくまどひぬるかな」及び「数ならぬふせ屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木」に因む。
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09:00-10:00
「帚木」(ははきぎ)があった場所への上り口。帚木とされていた木は枯れてしまい現在は残っていないよう。
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09:00-10:00
「帚木」(ははきぎ)案内板。
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10:00-11:00
神坂神社
暮白の滝から車で3分位。神坂神社がある。岐阜県との県境、神坂山(1684m)の南東側麓。古代の東山道最大の難所といわれた神坂峠への登り口に境内がある。駐車場は広い。
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10:00-11:00
住吉の三海神を祭神としている。江戸時代になり日本武尊(やまとたける)、誉田別尊(応神天皇)、建御名方命(諏訪明神)、須佐之男命(牛頭天王)を合祀。海の神を祭神にした由来は不明のようであり、同じ海人族の安曇族との関係があるのではとしている。阿智族には言及していない。
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神坂神社と御神木の日本(やまと)杉。この御神木の杉だけではなく、社殿を圧倒する巨木と巨岩に神社ができた理由がわかる。ここへ天孫族が降りると考えるのは自然だ。
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神坂神社
神坂神社と日本(やまと)杉の案内。
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神坂神社境内の万葉歌碑。古来歌枕の場所でもあり歌碑が多い。
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万葉集防人歌碑案内板。「ちはやぶる神の御坂に幣(ぬさ)まつり 齋(いは)ふ命は母父(おもちち)がため」主帳 埴科郡神人部子忍男(かむひとべのこおしお):万葉集巻20ー4402。主張とは主帳丁の略で書算の巧みな者を選任した書紀役。埴科郡の者であることから、現埴科郡坂城町の会地早雄神社にも同様の歌碑がある。現代語訳は「ちはやふる神の御坂に幣をささげて無事を願うわが命は、父母のためである」。
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古代東山道案内板。古代東山道は近江(滋賀県)を起点に美濃・飛騨(岐阜)〜信濃(長野)〜上野(群馬)〜下野(栃木)〜陸奥(福島・宮城・岩手・青森)〜出羽(山形・秋田)の8国で、その官道も東山道と呼ばれた。ヤマト王権の東国支配、蝦夷征伐、地方からの徴税、防人の派遣に重要な街道であった。その中で美濃から信濃への神坂峠は最大の難所であり重要な場所であったため、その守護と整備のため、王権に近い土木技術などの優れた氏族を派遣したのではないか。
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古代東山道。ここから神坂峠までは6.3q。峠には古代の祭祀跡がある。「ぬさ」として玉、鏡、剣の石製模造品が1400点余出土し、阿智村役場に保管されているよう。
ヤマト王権の先兵天孫系阿智族と善光寺の開祖本田善光の影を追う
1日目の旅ルート
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