こぼらさんの岐阜県の旅行記
岐阜西濃 竹中半兵衛の里〜華厳寺
- 1日目2019年1月13日(日)
-
垂井町岩手地区には、竹中氏の陣屋跡があります。竹中氏は、豊臣秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛を生んだ一族です。この陣屋の実態は、小さな城郭だったようです。 意外なことに、半兵衛はこの陣屋を居城とはしていませんでした。陣屋の西側に、半兵衛の父・重元が築いた菩提山城があり、半兵衛はそこを居城としていました。この陣屋は、半兵衛亡き後、息子の重門が菩提山城を廃城にし、ここを新たな居城として築いたものです。竹中氏は、江戸時代に入ると徳川将軍の旗本になったので、陣屋と呼ぶようになったのです。
-
陣屋の櫓門。櫓門は再建版かと思いきや、戦国時代(1588年)に建てられた本物だそうです。改修や手入れがなされているとはいえ、よくも400年以上の風雪に耐えて残っているものだなと思います。領地が関ヶ原の戦いの舞台となってしまい東軍に味方した事で、徳川将軍家の旗本に取り立てられた竹中氏が、明治維新まで居館として使っていたからでしょう。
-
櫓門の斜め前にある竹中半兵衛像。竹中半兵衛は豊臣秀吉の軍師だった人です。半兵衛は若くして亡くなっているので、後継軍師となった黒田官兵衛の方が有名なのが惜しいですね。 木下藤吉郎と名乗っていた頃の秀吉は、信長の美濃攻略で頭角をあらわし、大出世を始めていきました。秀吉が美濃攻略で見せた手腕は、半兵衛なくしては果たせなかったといわれています。
-
城郭のような堀と石垣が再現されています。 竹中氏は、関ヶ原合戦の際には東軍に与し、居城であった菩提山城を最前線基地として徳川家康に提供しました。戦いの後、菩提山城を廃して新たな居城として構築したのが、この城塞でした。このため、城に準じた造りと風格を備えていたのでしょう。 所領が関ヶ原合戦の戦場となった事や、居城を提供する等の手柄も立てたため、竹中氏は家康の配慮するところとなり、家臣(旗本)となりました。知行は6000石であったため大名扱いにはならず、実質は城であっても陣屋と呼ぶことになったのだそうです。
-
岩手山禅幢寺(ぜんどうじ)。山間の禅寺です。秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛の墓所があります。竹中氏とその家臣の菩提寺となっています。現存の本堂は半兵衛の孫・重常が寛文3年(1663)に建立したものです。 半兵衛は、天正7年(1579)播州三木の陣において、36歳の若さで病没しました。当初の墓は三木にありましたが、後日子の重門が改葬し、この寺に墓を移しています。
-
禅幢寺の境内。武将の菩提寺らしく、伽藍は小さめですが凛とした雰囲気を漂わせています。 本堂の左手(南側)には、竹中半兵衛と父・竹中重元の墓が並んでいる墓地があります。観光で墓所に行くのはどうかとも思いますが、地元は観光スポットとしてPRしたいようで、「半兵衛の里」の幟がいくつも立てられていました。
-
竹中半兵衛の墓
竹中半兵衛の墓です。父・竹中重元の墓と並んでいます。 三木城包囲攻撃をしていた竹中半兵衛は、36歳の若さで病死しました。このため、三木市にも墓があるようです。後に、息子の重門が改葬し、竹中氏の菩提寺に建てたお墓がこれです。
-
地元の小学校の一角にあります。(せいがきねんかん)と読みます。竹中半兵衛の子孫で、徳川将軍の旗本となった竹中氏が築いた武士教育の館の姿をモチーフにした資料館です。 江戸時代、大名が藩校などを設けて武士への教育を行っていたように、旗本竹中氏も道場菁莪堂を造営し文武両道教育を行っていました。 明治に入ると、名を「菁莪義校」「菁莪学校」に改め、地元の小学校に変遷しました。現在は、岩手小学校の一角に菁莪記念館が建てられています。
-
3連休ということもあり、昼間でも混み合っていました。駐車場には、名古屋・尾張小牧・滋賀ナンバーの車が少なからずいて、ここの人気ぶりがわかります。泉質が良いですからね。 先発の口コミでも指摘されていますが、施設と駐車場との間は公道が隔てており、しかも施設に入館するには、外側擁壁をぐるりと歩いて迂回するようになっていて、アクセスは余り良いとは言えません。写真手前が第1駐車場で、その東隣に第2駐車場がありますが、段差で隔てられていて中での往来ができないのも少々不便です。 本館は同じ敷地内に駐車場があり便利ですが、全体が小さいので満員御礼になりやすいのです。
-
入口には、1月中旬ということで門松が立てられていました。開館後1,050万人の入浴者が訪れたという表示が出ていました。新館本館合わせての数字でしょうが、単純計算では日本人の11人のうち1名が池田温泉を利用したという事になります。途方もない人気ぶりだと思います。
-
新館のロビーの様子。池田温泉は、泉質の良さ一本槍で勝負していると思います。 前回は本館を利用してロビーや休憩室が狭いという印象を受けました。新館だったら広くなるのかなと期待しましたが、こちらも狭かった。更衣室も狭かったです。 肝の浴場は、たっぷりとスペースが取ってあります。特に露天風呂の面積は大きめで、大浴槽×1、寝湯×4、壷湯×2、サーキットウォークもできる立ち湯×1といった具合。湯は重曹泉で、美肌の湯と呼ばれるだけあり、肌がつるつるしてくる良い湯です。 日帰り温泉とは、広くて豪華な休憩室は必ずしも必要ではなく、湯と浴場の雰囲気を楽しむ場所であれば良いのだと悟らされます。
-
谷汲山華厳寺の仁王門。天台宗の寺院です。南北朝の争乱や、織田信長による叡山焼き討ちに代表される天台宗寺院弾圧を経ているため、伽藍の塔堂は決して古くはなく、建築物は国宝や重文に指定されているものはありません。仁王門も、18世紀後半に再建されています。 しかし西国三十三所の満願霊場ということもあり、広く参拝者を集める古刹です。仁王門から本堂までの長い参道の左右には、多くの堂や幟が並び建っており、とても荘厳な雰囲気がします。 ここの付近には親類が多く実家も近いため、これまで私は華厳寺には何十回と参拝しています。生活の一部になっているような感じもあります。
-
9丁ほどもある長くて真っ直ぐな門前道から仁王門にかけて、「西国三十三所草創1300年」の幟があちこちに立てられています。日本最古の巡礼道というタイトルも付いています。2016年から2020年にかけて西国三十三所では、普段なら非公開となっている堂や庭園・秘仏・寺宝の公開がなされます。 しかしながら、谷汲山華厳寺が西国三十三所の一つに加えられてから500年程しか経過していないようです。西国三十三所巡礼が世間に広まったのも500年程前のようです。 あくまでも伝説上の話として、奈良の長谷寺を開基した徳道上人が閻魔大王のお告げを受け、三十三所巡礼を世間に広めようとしてから1300年が経過したということです。でも、500年よりは1300年の方が響きが良いし、夢がありますね。
-
仁王門をくぐり長い参道を進むと本堂が見えてきます。一昨年の秋の台風で、本堂に向かって右側の樹木が倒れてしまいました。このため、右側の見通しが良くなり、すっきりしています。
-
本堂前の手水場の脇に、2体の大きな観音像が立っておられます。どうしてここに、お二人が並んでおられるのか、謂われは知りません。 華厳寺の御本尊である十一面観音菩薩立像は秘仏で、滅多に御開帳にはなりません。このため、この観音像を拝みに遠方から参拝に来られる方々も多いです。
-
本堂の広い向拝部分。正月3ヶ日には、ここに初詣の参拝者が立錐の余地もない程に集まります。混み合っていると人垣ができて、こうした写真は撮影できません。 直径が1m近くはありそうな鰐口が、太い鎖によって吊り下げられています。昔は鰐口を打ち鳴らしてお参りできましたが、最近はできなくなったようです。 「谷汲山」の扁額に至っては、縦寸が2mほどに見えます。917年に、醍醐天皇より「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額が下賜されたそうですが、さすがに当時のものではないでしょうね。
-
本堂の背後より、本堂・鐘楼・英霊堂を望む。本堂は明治12年(1879年)に再建されたものです。 明治12年といえば、明治政府の寺社領上知令による領地没収から数年後のことです。華厳寺にとって、とても財政的に厳しい時代だったはずです。そんな時期に本堂を再建するとは、いかに多くの支持者がいたかを物語ります。
-
本堂を斜め前から見ています。向拝がとても大きい造りです。
-
谷汲山華厳寺の近くにあります。門前を横切る県道を西へ(藤橋・横倉方面)400mほど進むと「谷汲あられの里」という看板が出ています。工場と直販店が敷地内にあります。
-
これが直販店です。中にはイートインコーナーもあります。
-
直販店内の様子。いろいろなあられが並んでいます。お茶を出してもらい、試食もできます。カレー味やチーズあられなど、いくつか買って帰りましたが、どれもとても美味しかった。
-
一目見て買ってしまったのが「西国三十三所草創1300年」記念のあられセット。パッケージが、華厳寺境内にあった幟と同じデザインになっています。1,500円と少しお高いですが、見るからに高級そうで美味しいあられが入っていました。
-
「みんなの森ぎふメディアコスモス」の西隣にあります。駐車場がないので、メディアコスモスに車を駐めて、参拝するといいでしょう。美江寺の現在の本堂は、1955年に再建されたものです。美江寺は奈良時代以来、瑞穂市にありましたが、16世紀頃に現在の場所に移されたそうです。 私は三重に住んでいますが、美江寺の名前は三重の歴史好きにも知られています。白鳳時代に創建された伊賀寺(現・夏見廃寺・三重県名張市)金堂に祀られていた十一面観音立像(重文)が、美江寺の創建(奈良時代初期)に伴い移されたと聞いているからです。 夏見廃寺展示館に設けられている復元金堂には、ここ美江寺の十一面観音立像の等身大写真パネルが展示されています。伊賀寺金堂に祀られていた時代の十一面観音立像は、金箔が貼られた「せん仏壁」を背景に、御自身も全身が金色に輝いておられたはずで、それは見事であったものと想像されます。
-
本堂中央におられる十一面観音立像は、伊賀寺から移ってこられた像ではなく、別の像です。岐阜市の指定文化財となっています。 美江寺には国の重要文化財となっている本尊・十一面観音立像がありますが、秘仏になっていて、毎年4月18日のみ御開帳になります。 重文の十一面観音立像は、脱活乾漆造という、麻布を漆で貼り固めて造形する工法で造られています。東海地方では見かけない工法のようですが、近畿に隣接する伊賀国から移されてこられた事情を考えれば納得できます。
-
1986年に再建された仁王門。16世紀に建立されたオリジナルは、戦時中の空襲で、本堂ともども焼失しています。
-
岐阜市に大きくて素晴らしい施設ができたとは聞いていました。でも、メディアコスモスと聞いても、どういう施設かピンと来ませんでした。早い話、岐阜市の中央図書館をメインにし、市民活動交流センターやホール・ギャラリーも含めた複合施設のことでした。 岐阜大学医学部の付属病院跡地に建てられた、かっこいい建物です。南側には、屋根がサーカステントのようなデザインのスターバックスがあります。
-
岐阜市の中央図書館だという先入観で見ると、1階は全然図書館らしくなく、大きな高級ホテルのロビーにいるような印象を受けます。これが市民活動交流センターです。オープンWifiが備わっているようで、皆さんテーブル席に腰掛けて、モバイルPCやスマホでネット閲覧していました。
-
写真中央にエスカレータが見えています。2階の図書館に行くには、これを使います。岐阜市民ではないので図書館には行きませんでしたが、2階には豪華で進歩的なデザインの閲覧コーナーがある事を知ったのは事後でした。上がって見ておけば良かった。残念。
-
メディアコスモスの南側にあるスターバックス店内の様子。利用者がとても多く、テーブル席は多数ありますが、窓に面した長椅子席しか空いていませんでした。 私たちはイルミネーションを楽しみにやってきたので、ここでカフェミストを飲みながら、点灯を待ちました。
-
テニテオイルミナード2018
岐阜市
「みんなの森 ぎふメディアコスモス」の西側エリアにある「せせらぎの並木 テニテオ」で行われているイルミネーション。私たちは、これを楽しみにメディアコスモスに来ました。 約14万球のLEDが並木道に仕掛けられていて、午後5時に点灯されます。点灯の瞬間、並木が一斉に輝き始めると、待ちわびていた観覧者たちから歓声が上がりました。 同じ色のLEDが使われ、点滅もしないシンプルなイルミネーションですが、かえって気品ある眺めとなっています。午後10時まで点灯されます。
-
テニテオイルミナード2018
岐阜市
岐阜市役所を背景にしたイルミネーション。午後5時の点灯を待ちわびていたように、大勢の人たちがメディアコスモスから出てきました。幼い子供たちが、両手を広げ、駆け回って喜んでいました。1月下旬までの期間限定ですが、粋なはからいのイベントだと思います。
-
メディアコスモスの北口付近。施設全体もイルミネーション効果を出しています。2階の図書館の天井が見えています。格子模様になっています。木製と聞きます。
岐阜西濃 竹中半兵衛の里〜華厳寺
1日目の旅ルート
こぼらさんの他の旅行記
-
2020/6/21(日) 〜 2020/6/22(月)
- 夫婦
- 2人
2泊3日の鳥取めぐり旅の後半です。2泊目は、コロナ感染予防体制を整えたうえで営業再開した湯快リゾート...
2543 21 2 -
2020/6/21(日)
- 夫婦
- 2人
2泊3日の鳥取旅行の2日目です。まずは白兎海岸(鳥取市)に寄って神話「因幡の白うさぎ」の舞台である美...
2468 23 2 -
2020/6/20(土)
- 夫婦
- 2人
2泊3日で鳥取めぐりの旅をしました。初日は、砂丘=「すなば」とコーヒー店「スタバ」とをもじったネー...
2248 25 4 -
2020/5/12(火)
- 夫婦
- 2人
ゴールデンウィークが過ぎると、コロナ拡大防止のための移動自粛が少しは和らいで、条件付きながら観光...
2628 28 2
みんなのコメント(1件)
投稿する
投稿に際しては、必ず観光ガイドご利用規約をご確認ください。
閉じる皆様がより快適にご利用いただくための「投稿上のルール」や、
投稿内容の利用に関して記載しております。
さらに表示する