Shotaさんの岐阜県の旅行記
関ケ原の戦 東西の陣跡を巡る
- 1日目2019年9月10日(火)
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関ケ原歴史民俗資料館
「関ケ原の戦い 開戦時の陣形」(関ケ原歴史民俗資料館パンフレット)戦況の変化に従って移動することになる。安国寺恵瓊、吉川広家、長束正家、長曾我部盛親らの陣はこの図の範囲外になる。
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10:00-11:00
戦場の北西に位置しており、全体を見渡すことができるし、向かいの松尾山に陣を敷いて、寝返るかもしれない小早川秀秋に対して睨みを利かせることもできた。
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10:00-11:00
笹尾山は標高200メートル。展望台があり、幟が立っている。家康軍7万に対して三成軍は8万といわれたが、各武将に思惑があって、三成の目算通りには動かなかったようだ。
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10:00-11:00
石田三成陣跡石碑
盟友大谷吉継は、三成の「横柄さ」が豊臣安泰を願う者すら家康に走らせる故、毛利輝元か宇喜多秀家を上に立てよと進言したと伝わる。これが史実であるかは不明。しかし、諸将の動きはこの言が当たらずとも遠からずであったことを示している。
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10:00-11:00
島左近陣跡
笹尾山の麓に陣を張ったのは、三成の腹心、島左近であった。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われたほどの智将。事実、その奮戦ぶりが伝わっている。一帯には馬防柵が復元されている。
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11:00-13:00
松尾山・小早川秀秋陣跡
笹尾山 (三成陣) の向かいにある松尾山。標高292.9メートル。登るのはなかなかたいへん ! 軽い熱中症になってしまった。戦場の南西の位置から全体を見渡すことができる。
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11:00-13:00
小早川秀秋陣跡
小早川秀秋陣の幟。秀秋は朝8時頃の開戦から昼まで動かなかったとされる。当初三成は、西軍総大将の毛利輝元をこの地に招こうとしたが大阪にとどまって出陣せず、秀秋が布陣することとなった。
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13:00-13:00
脇坂安治陣跡
脇坂安治は大谷吉継指揮下で松尾山の麓に布陣したが、小早川秀秋軍が寝返るとそれに加勢し、吉継軍を壊滅に追い込んだ。安治は藤堂高虎の調略で東軍に内通していた。
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13:00-14:00
島津義弘陣跡
西軍の猛将、島津義弘の陣跡。すぐ脇に甥の島津豊久も陣を敷いた。合戦前からのいきさつもあったのか、義弘はあまり積極的に戦に参加してはいない。
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13:00-14:00
小西行長陣跡
西軍・小西行長の陣跡。同じく西軍・宇喜多秀家の陣があった天満山の麓に行長は陣を敷いた。開戦と同時に寺沢広高や戸川逵安らに攻め込まれてしまう。
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14:00-15:00
平塚為広慰霊碑
近くの垂井城主、平塚為広は天満山の宇喜多秀家陣と大谷吉継の陣の間に布陣。病をえていた吉継に代わって前線の指揮をとったという。末裔である平塚雷鳥が慰霊碑を建立した。
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15:00-16:00
大谷吉継陣跡
小早川秀秋の寝返りを予測していた西軍・大谷吉継は、松尾山 (小早川陣) を望む地点に陣を敷き、小早川軍と対峙した。事実、開戦から4時間程たって小早川は寝返ったとされる。吉継はそれに猛然と立ち向かい奮戦する。
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17:00-23:00
ホテルルートイン岐阜羽島駅前
岐阜羽島駅前にあるビジネスホテル。大 ? 浴場があるのでゆっくりくつろいで、松尾山登山の疲れと脚の痛みを癒すことが出来た。駐車場完備で朝食バイキング付き。
- 2日目2019年9月11日(水)
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08:00-08:00
徳川家康最初の陣
徳川家康が戦場東部の桃配山に置いた最初の陣跡。天智天皇元年(672年)壬申の乱に勝利した大海人皇子が兵士に山桃を配った地とされる。思わしくない戦況に、家康は三成の陣に向けて兵を進めていく。この時点で嫡男秀忠が率いる徳川の主力3万3千は信州上田にいる。
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08:00-09:00
山内一豊の陣跡
東軍・山内一豊の陣跡。家康軍の少し東。南方の南宮山に陣を敷く毛利秀元、安国寺恵瓊らの攻撃に備えた。
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08:00-09:00
浅野幸長の陣跡
東軍・浅野幸長の陣跡。山内一豊に続く位置。幸長は豊臣五奉行の一人、浅野長政の嫡男であったが、三成と確執があったため、東軍に属した。
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08:00-09:00
池田輝政陣跡
東軍・池田輝政の陣跡。浅野幸長に続く位置。ここは隣町の垂井町になる。輝政は家康の息女督姫を娶り、娘婿の関係にあった。戦後はその功により姫路52万石に転封。
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09:00-10:00
黒田長政・竹中重門陣跡
東軍・黒田長政・竹中重門の陣跡。岡山烽火場は164メートルの丘陵で、松尾山 (小早川陣)、笹尾山 (三成陣)、中山道、北国街道などを一望できる。関ケ原一帯の領主であった竹中重門は地の利を生かしたと思われる。
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10:00-10:00
細川忠興陣跡
東軍・細川忠興の陣跡。元々三成とは仲が悪かったが、妻ガラシャが三成軍の人質になるのを拒んで自害したことや父・幽斎の田辺城包囲など、三成憎しの念は強かったとされる。
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10:00-11:00
井伊直政・松平忠吉陣跡
家康の四男松平忠吉とその舅で徳川四天王の一人井伊直政の陣跡。直政は、この戦いが初陣であった忠吉の後見役を務め、数十騎を率いて先陣を切り、戦いの火蓋を切った。
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10:00-11:00
田中吉政陣跡
東軍・田中吉政の陣跡。吉政は約3千の兵を率いて奮戦。合戦後、逃走した三成探索を命ぜられ、長浜市古橋村の洞窟に潜む三成を捕縛し功を上げたと伝わる。
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11:00-11:00
藤堂高虎・京極高知陣跡
東軍・藤堂高虎と京極高知の陣跡。中山道の南側、関ケ原中学校の構内にある。築城の名手として知られる高虎は調略にも長けており、調略を受けた脇坂、朽木、赤座らは寝返って小早川秀秋軍と共に大谷吉継軍を攻撃する。
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11:00-12:00
福島正則陣跡
東軍・福島正則の陣跡。三成とは犬猿の仲であった正則は先陣の功こそ逃すが、約三倍の兵力を有する宇喜多軍と相対し、午後には突き崩した。戦後、安芸・広島49万石に封せらる。
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12:00-12:00
本多忠勝陣跡
徳川四天王の一人であった猛将、本多忠勝の陣跡。伊勢街道を抑え、南宮山の毛利、安国寺らの攻撃に備えた。南宮山動かじと見ると、家康本隊の前進に合わせて戦闘に参加する。
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12:00-13:00
関ケ原開戦の地
1600年・慶長5年9月5日、午前8時頃、東軍・井伊直政、松平忠吉が先陣を切って西軍・宇喜多秀家軍に発砲、福島正則がそれに続くかたちで戦いの火ぶたが切って落とされた。
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13:00-14:00
安国寺恵瓊陣跡
西軍・安国寺恵瓊の陣跡。毛利家の外交僧であった恵瓊は、毛利輝元を西軍総大将にすえることに成功はしたが、東軍に内通した吉川広家のため動けなかった。
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14:00-14:00
吉川広家陣跡
西軍・吉川広家の陣跡。主家の毛利輝元が西軍に属したため、本家の存続をはかり、東軍に内通。南宮山の麓に陣を構えて、毛利軍の参戦を押しとどめた。しかし、戦後毛利家、吉川家共に減封の憂き目にあう。
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14:00-14:00
長束正家陣跡
豊臣五奉行の一人、長束正家の陣跡。南宮山の麓に布陣、池田輝政隊と銃撃戦を展開するも、東軍に内通した吉川広家の妨害により攻勢に出られなかった。
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14:00-15:00
長曾我部盛親陣跡
西軍・長曾我部盛親は栗原山麓に陣を敷いたが、東軍に内通した広家の妨害により傍観せざるを得なかった。戦後、盛親の領地、土佐22万石は山内一豊に与えられた。
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15:00-15:00
徳川家康最後の陣
戦況を見極めながら、家康は桃配山の陣から中山道付近に進み、さらに三成軍と対峙するかたちでこの付近に本陣を敷いた。昼になっても動かぬ小早川秀秋陣に向けて、世にいう「問鉄砲」を撃ったとされるが、定かではない。
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15:00-16:00
関ケ原決戦地
午後2時か3時、勝敗は決したかに見えたとき、島津義弘と甥の豊久が残る300の手勢で正面を突破、家康の本陣をかすめて伊勢街道を南下する。「島津の退(の)き口」である。
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16:00-16:00
烏頭坂・島津豊久碑
島津豊久は伯父義弘が南下するのを助けて「捨て奸(かまり)」の戦法をとった。自らが捨て石になる作戦である。結果、義弘は大阪で人質を取り戻し、19日かけて薩摩まで戻った。残った部下はわずか数十人だったという。最終的に、領地は安泰となる。
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16:00-16:00
戦いの後、一帯を領していた竹中重門は家康の命を受け、両軍の死者を埋葬し、東西の首塚を造営した。死者の数も正確には分からず、東西いずれの遺体かもわからぬまま葬る以外なかったとされる。
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17:00-18:00
大谷吉継墓
西軍の猛将、大谷吉継の墓。わずか600の手勢で1万1千の小早川軍を三度押し戻したという。しかし脇坂、赤座、朽木らの寝返りにより総崩れとなる。敗北を知った吉継は近習の湯浅五助に介錯をさせる。
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17:00-18:00
大谷吉継家来・湯浅五助墓
病で崩れた自分の顔をさらすなとの命を受けた湯浅五助は、自らの首を差し出して吉継の首を隠し通したと伝わる。今、主君の隣に眠っている。
関ケ原の戦 東西の陣跡を巡る
1日目の旅ルート
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