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メタボ大王さんの滋賀県〜奈良県の旅行記

飛鳥・奈良 仏教伝来の地を巡る

  • 夫婦
  • 2人
  • 芸術・文化
  • 史跡・歴史

インド・百済・日本の三国伝来の日本最古の一光三尊阿弥陀如来を本尊とする善光寺の縁起を訪ね、奈良県の明日香から奈良を巡った。仏教伝来と物部氏、蘇我氏、藤原氏など古代豪族の興亡の跡を追ってみた。1日目 談山神社〜石舞台〜万葉文化館〜亀形石造物〜酒船石〜飛鳥寺・蘇我入鹿首塚〜藤原鎌足生誕地〜大伴夫人の墓〜飛鳥坐神社〜向原寺(豊浦宮跡)〜高松塚古墳〜文武天皇陵〜中尾山古墳 橿原市泊 2日目 橿原神宮〜宗我坐宗我都比古神社〜藤原宮跡〜欽明天皇磯城島金刺宮跡〜仏教伝来の地碑〜大神神社〜纏向古墳・遺跡〜黒塚古墳〜石上神宮〜東大寺 奈良泊 3日目 興福寺〜春日大社〜奈良公園 

長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代

1日目2019年10月20日(日)
10:00-11:00

談山神社

桜井市

「談山神社」を   >

藤原鎌足を祭った神社。いわゆる乙巳の変(大化の改新)での蘇我入鹿の暗殺を中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が謀議した「談(かたら)い山」と墓所もある。唐から帰国した鎌足の長男・定慧が摂津国(現在の高槻市)にあった鎌足の墓所から遺骨の一部を改葬したもの。「多武峰縁起絵巻」など日本書紀を実質的に作成した藤原不比等らにより物語が作られた。

10:00-11:00

談山神社の木造十三重塔。仏教的建物。鎌足の長男で僧であった定慧が建てた元々は寺であったもの。藤原氏は神社と寺の両方を手中に治めたのだ。

10:00-11:00

談山神社御本殿。拝殿の中から参拝する。日光東照宮のお手本となった豪華絢爛な建物。

10:00-11:00

談山神社。南北朝時代、戦火を避けて御神体を飛鳥の橘寺に遷座したが3年後に帰座した。喜んだ13軒の人々が多武峰の秋の収穫物を供えたことが始まりの「百味の御食」。供物の積み方が韓国風だ。

参道の入口にある後醍醐天皇の寄進とされる石灯籠。南北朝の動乱の始まった元徳3年(1331)の刻銘がある。重要文化財。上る時には気が付かなかった。

10:00-11:00

多武峰から石舞台に降りる途中から見た飛鳥。この細川谷には群集墳があり蘇我一族の墓と考えられている。地図では談山神社の真西に石舞台がある。蘇我宗家を滅ぼした藤原氏は石舞台の真東に藤原の祖鎌足を祀る神社を建て、更に東方に伊勢神宮を配した。 蘇我一族が眠る王家の谷の頂上に神社を建てた藤原氏の意図は何だったのか。

10:00-11:00

石舞台古墳

明日香村(高市郡)

「石舞台古墳」を   >

談山神社に祀られる藤原鎌足らにより朝敵の汚名を被せられた蘇我馬子の宗家。日本一の規模を誇る石室がどのように造営されたか教えてくれる。飛鳥では蘇我氏が生きている。悲劇の主人公でもあるが仏教を日本に受け入れ様々な改革をしようとした蘇我馬子は、飛鳥大仏とともに明日香の人々の手で永遠に護られている。

10:00-11:00

石舞台古墳

明日香村(高市郡)

「石舞台古墳」を   >

覆土を取られた上円下方墳。石室は日本最大級。まさに大王の墓。蘇我馬子の墓とされるが、「日本書紀」の中では仏教の厚い庇護者として細かに書かれている。表土を剥ぐほどの憎悪があるなら、なぜ書紀は馬子を仏教庇護者として讃えているのか。綺麗に手入れがされた古墳は明日香の人達の蘇我氏に対する思いを表しており、訪問者も多い。

11:00-12:00

奈良県立万葉文化館

明日香村(高市郡)

「奈良県立万葉文化館」を   >

万葉時代の遺跡に立つ文化館。万葉時代が再現されている。渡来人が開いた飛鳥の里は倭の最先端の技術と文化の集積地だった。韓国の韓屋村そのものだ。発掘された「富本銭」や工房跡などもあり、この地から急速なクニ造りが始まったことがわかる。

11:00-12:00

亀形石造物

明日香村(高市郡)

「亀形石造物」を   >

明日香村が管理する亀形石造物。木樋以外は本物。ボランティアガイドさんの「掘り出されたそのままを見せている。何の目的に作られたものかは、この場所で考えてもらうように」との村の方針がいい。周囲の地形や方角は現場でなければわからない。

11:00-12:00

祭祀の場所との説明であった。纏向遺跡などでもトイレとみられる木樋遺跡が発掘されており、水洗トイレにも見えるが土壌の分析ではベニバナの花粉が出たものの、寄生虫卵はなかったよう。また、周囲が石敷で階段状のテラスもあり、大勢の人が見守る儀式が行われたとも。

11:00-12:00

酒船石

明日香村(高市郡)

「酒船石」を   >

亀形石造物から竹藪の山道を上ると「酒船石」がある。近世になり削られてしまったので元の形がわからないが、この上部から土管、石樋などが発掘されており、庭園だったのではないかとの説明。新たに発掘された亀形石造物と関係した祭祀遺跡とも。

11:00-12:00

酒船石。上部から流れた雨が溜まっている。南北が大きく割られてしまったようだが、1300年以上前であり周囲はもっと土に覆われていたのではないか。この下で石垣遺構も見つかり発掘調査が続けられている。斉明女帝の「狂心渠」(たぶれごころのみぞ)の一部とも見られているが、優れた石工集団がいた新羅の影響があった筈だ。石像の宝庫、新羅には王侯貴族が曲水の宴をはった石庭もある。

11:00-12:00

安居院(飛鳥寺)

明日香村(高市郡)

「安居院(飛鳥寺)」を   >

蘇我氏の氏寺として創建された飛鳥寺(法興寺)が現在の安居院である。発掘調査では横並びに三つの金堂を持つ伽藍配置であり、高句麗の清岩里廃寺がモデルのよう。百済だけでなく北魏、高句麗、新羅など技術の集積がここに花開いた。木造建築が主体の古代日本に、瓦葺きの大伽藍が突如現れたのだ。当時の人々の驚きはいかばかりか。蘇我氏の出自も金官伽羅(倭)の王家との説もあるが、まさに大王だったのだ。

11:00-12:00

飛鳥寺住職の一文。飛鳥寺は、仏法のシルクロードの終点であり日本の起点としている。インドで始まった仏教がその地を追われ行き着いた先が日本とタイ・ミャンマーなどだ。朝鮮半島の戦乱を逃れた高句麗、百済の仏教徒が九州を経て河内(西の飛鳥)と大和(東の飛鳥)に安住の地を求めた。安宿(アンスク)が飛鳥となったよう。

11:00-12:00

飛鳥寺略縁起。蘇我馬子が創立した日本最初の本格的寺院。法興寺、元興寺、飛鳥寺等と名を代え現在は安居院。本尊の釈迦如来は推古天皇が鞍作鳥に造らせた(推古13、605)とされる。蘇我氏が庇護していた仏教が「国家仏教」となった。ちなみに新羅に仏教を広めたのは23代「法興王」。新羅は高句麗から仏教が伝わったことから「北朝仏教」であり「国家仏教」であった。

11:00-12:00

この小さな寺にわが国最初の金銅仏である釈迦如来坐像がある。鞍作鳥が造った丈六の仏像で「飛鳥大仏」と呼ばれている。重要文化財ながら撮影自由。鞍作鳥はその名が示すように馬飼集団の鞍作りの系譜だ。この時、「高麗国の大興王が黄金三百両を献貢した」(紀)とされる。また、推古天皇が仏像を造った鞍作鳥に「お前の祖父司馬達等は仏舎利を献上、父の多須奈は用明天皇のために出家して仏教を信じ敬った。姨の嶋女は出家して尼の導者となった」と褒め大仁の位を授けたとされる。鞍作鳥は蘇我蝦夷(又は入鹿)であり、司馬達等は稲目、多須奈は馬子、嶋女は馬子の娘ではないかとされる。馬子は「嶋の宮」「嶋大臣」とも呼ばれた。丈六の仏像は火災により大部分が焼失したが顔の一部や左耳は造立当初のもののよう。修復を繰り返した傷だらけで顔が少し右に傾いた姿だが、非常に穏やかないい顔をしている。日本書紀に沿うよう多くの仏像が藤原氏により百済様式に改鋳されてしまったようだが。

11:00-12:00

飛鳥寺保管の蓮華紋の「軒丸瓦」。当時の百済の寺の瓦と文様ば同じようで、百済からの瓦職人が飛鳥に入ったよう。飛鳥寺の東側には瓦を焼いた工房跡も発掘されている。善光寺周辺からも蓮花紋の軒丸瓦が出土しているが時代は9世紀後半のよう。

11:00-12:00

蘇我入鹿首塚

蘇我入鹿首塚と甘樫の丘。「多武峰縁起絵巻」に描かれた入鹿の首は御簾越しに皇極天皇を追っているとされる。歴史の真実は地元の人が知っている。この五輪塔も鎌倉時代になって造られたもの。入鹿を慕う人々が藤原氏が全盛の頃にはできなかったものを立てたのだろう。菅原道真や源義経など悲劇の主人公を慕う判官びいきの人は今も引きも切らない。

12:00-13:00

藤原鎌足公誕生地

明日香村(高市郡)

「藤原鎌足公誕生地」を   >

飛鳥寺から奈良県立万葉文化館の裏手のたんぼ道を10分位上る。乙巳の変で急に現れた中臣(藤原)鎌足の誕生地。小原神社がありその裏に産湯の井戸がある。物語ではあるが、こんな飛鳥の蘇我一族の地に鎌足の生誕地を作った意図は何か。

12:00-13:00

藤原鎌足の産湯の井戸

神社本殿のような覆屋にも井戸らしいものがあったが、実際の「産湯の井戸」は裏の沢を下った草むらの沢底に近い所にあった。沢の底の井戸とは不自然だ。談山神社の豪壮な建物や春日大社、興福寺があるのだから祖先の誕生地ならもっとしっかりした建物を造ってよさそうだが。

12:00-13:00

大伴夫人の墓

藤原鎌足誕生地の西側に母大伴夫人の墓がある。古墳のような小山だが、昔からの言い伝えで「ご誕生山」と呼ばれてきた。墓が誕生山と呼ばれるのは不自然で、この付近の土と現在の飛鳥大仏の体内に付着している土を分析した結果、素性が一致したことから、この山を利用して「飛鳥大仏」の製作工房があり、大仏の誕生から「ご誕生山」と呼ばれてきたのではないかとしている。(飛鳥寺発行「元興寺縁起 所引」)母親が古代豪族大伴氏であったことも鎌足出世の力になっただろう。藤原鎌足誕生地とともにとってつけたような墓である。どちらも談山神社や春日大社のような建物を建てていないが、蘇我氏を慕う明日香では権勢を誇った藤原氏も豪壮なものを造れなかったのか。

13:00-13:00

飛鳥坐神社

明日香村(高市郡)

「飛鳥坐神社」を   >

大伴夫人の墓を下ると飛鳥坐神社となる。飛鳥の守護神。平安時代に現在地に遷座したよう。陰陽石があり子授けの神。飛鳥は蘇我氏の勢力地だが、朝敵となった蘇我氏を祭る神社は橿原市にある。

13:00-14:00

向原寺(豊浦寺跡)

明日香村(高市郡)

「向原寺(豊浦寺跡)」を   >

仏法の興隆のためには法師寺と尼寺が必要であり、「法興寺」とともに創建したのが尼寺の「豊浦寺」で発掘調査などにより向原寺とされている。蘇我稲目の向原の家があり、推古天皇の「豊浦の宮」があった場所でもある。日本書紀では、仏教の草創期を蘇我氏と11歳の善信尼ら渡来人の娘3人を登場させているが理由は何だったのか。ちなみに善光寺大本願の初代上人は蘇我馬子の娘で聖徳太子の妃であった「刀自古郎女(とじこのいらつめ)」とのことである。

13:00-14:00

向原寺の「難波の堀江」。物部氏が仏像を投げ込んだとされる「難波の堀江」とされ善光寺縁起発祥の場所である。なお、物部氏の本拠地であった河内を「難波の堀江」とする説もあり、藤井寺市の小山善光寺なども元善光寺を名乗る。市の名である葛井寺に隣接する辛国神社には長野神社も合祀されており、葛井(藤井)氏、長野氏も渡来人であり信濃に行ったとの説もある。善光寺を支えた長野氏がいた場所が「長野」で後に県名まで出世したとも。

14:00-15:00

国営飛鳥歴史公園

明日香村(高市郡)

「国営飛鳥歴史公園」を   >

高松塚古墳に行くためにはここに駐車。

14:00-15:00

高松塚壁画館

明日香村(高市郡)

「高松塚壁画館」を   >

期待していたが空調が悪くレプリカでも撮影は禁止。高句麗の古墳壁画の系譜であり、女子群像はチマチョゴリ風。北朝鮮には簡単に行けないが、ソウルの国立博物館には戦前の統治時代に日本人が模写した実物大の「江西大墓」の四神像が展示してあったが、巨大であり撮影は自由だった。それに比べると小さいが群像図などは鮮やか。

14:00-15:00

高松塚古墳

明日香村(高市郡)

「高松塚古墳」を   >

古代史ブームを引き起こした「女性群像」や四神の壁画はこの古墳にあった。現在は別の場所でカビなどを防ぐ処置をされているよう。キトラ古墳も高句麗壁画古墳の系譜にあり、この付近には高句麗の影響を受けた氏族が多かったのか。初期・中期の高句麗壁画のようなユーモラスで躍動的なものは影を潜め墓誌も残されていない。

14:00-15:00

文武天皇陵

明日香村(高市郡)

「文武天皇陵」を   >

高松塚古墳から徒歩で5分位で文武天皇陵。宮内庁管理で中は原生林のよう。高松塚古墳とキトラ古墳の間にある。この陵墓を下ると檜前(檜隈:ひのくま)で渡来人の地。応神天皇の時代、東漢(やまとのあや)氏の祖阿知使主(あちおみ)が渡来し与えられた地である。氏寺であった檜隈寺跡に「於美阿志神社」がある。羽田氏、巨瀬氏などもいたが、善光寺縁起を記す「扶桑略記」には小治田天皇(推古)壬戌年(602)に「秦巨勢太夫」が三国伝来一光三尊像を信濃に運んだとされている。また、「伊呂波字類抄」では「信濃国若麻績(わかおみ)東人」としている。

15:00-16:00

中尾山古墳

明日香村(高市郡)

「中尾山古墳」を   >

国営飛鳥歴史公園内の小高い山の上にある中尾山古墳。高松塚古墳や文武天皇陵を見下ろす場所にある。舒明天皇陵、天智天皇陵、天武・持統天皇陵など終末期の天皇陵にみられる八角形墳であり、こちらが文武天皇陵ではないかとの説もある。火葬骨を納めた石棺が発掘されている。ドングリがたくさん落ちていた。

17:00-18:00

グランドメルキュール奈良橿原(旧THE KASHIHARA)

「グランドメルキュール奈良橿原(旧THE KASHIHARA)」を   >

予約時に夕食はフランス料理、中華、和食から選ぶ。中華を頼んだ。コースで出される料理もうまく、大吟醸のお酒がよかった。

2日目2019年10月21日(月)
06:00-07:00

橿原神宮

橿原市

「橿原神宮」を   >

ホテルの朝食前に橿原神宮を参拝。日本書紀に基づき明治になって創建された神社で神武天皇と皇后を祀る。背後の畝傍山と神武天皇陵に続く社叢は広大だ。

07:00-08:00

グランドメルキュール奈良橿原(旧THE KASHIHARA)

「グランドメルキュール奈良橿原(旧THE KASHIHARA)」を   >

朝食もよかった。外国人が多いとの口コミがあったが昨日はほとんどいなかった。

08:00-09:00

宗我坐宗我都比古神社

橿原市

「宗我坐宗我都比古神社」を   >

朝敵とされた蘇我氏の神社のためか非常に簡素な拝殿と境内だが白木流造りの本殿は立派だ。近鉄大阪線の真菅駅前にあり西方には曽我川が流れている。場所は曽我町。栄華を誇った藤原氏だが「藤原」の名がつく川や町はない。

08:00-09:00

藤原宮跡

橿原市

「藤原宮跡」を   >

天武天皇が建設を始め持統天皇が完成(694年)させたといわれる日本初の都、「藤原宮」。わずか16年で平城京に遷都してしまい残ったものはない。それまで天皇ごとに宮が移動していたが持統、文武、元明の三代の天皇が都とした。660年百済が滅び、668年高句麗が滅び、唐とその冊封体制の統一新羅が日本を支配して行く。蘇我氏と同じ伽耶(後に新羅が併合)が出自ともされる藤原氏が「宮」の名の通り日本側の実質的支配者になる。

09:00-10:00

欽明天皇磯城島金刺宮跡

欽明天皇:磯城島金刺宮(しきしまかなさしのみや)跡。桜井市の中和幹線と大和川が交差する場所にある。日本書紀では百済の聖明王が欽明天皇に仏像を贈ったとしている。欽明天皇に仕えた者が「金刺部氏」として科野(信濃)で重要な地位に就いて行く。その後諏訪大社下社の神官、善光寺大本願の中にあった諏訪神社、更に弥栄神社の神官斎藤家も近年まで「金刺」と呼ばれていたよう。

09:00-10:00

日本書紀に基づく仏教伝来の様子。欽明天皇は大臣の蘇我稲目に仏像を授けて礼拝させた。南朝(東晋)の影響を受けた百済は国家仏教ではなく氏族仏教であり、仏教公伝が日本書紀の創作としても当時の日本が百済の影響を受け「氏族仏教」であったことがわかる。

09:00-10:00

仏教伝来の地 碑

金刺宮跡から少し下流の右岸に「仏教伝来之地」の石碑がある。古代の難波からの船は大和川(初瀬川)を遡りこの地が終着点。飛鳥や藤原宮への物流はここから。仏像、経典、僧の三点セットがここにあった訳ではない。大陸、朝鮮からの仏教関係文物がここから荷揚げをした。

09:00-10:00

この地は海拓榴市(つばいち)と呼ばれ、仏教伝来の碑から橋を渡った対岸に中国、朝鮮からの使節を迎える様子が壁画にしてある。遣隋使、遣唐使もここから出発。小野妹子や隋使裴世清らの名前が。日本書紀には敏達天皇14年、物部守屋が蘇我氏の仏殿、仏像を壊し、善信尼らの法衣を奪い、海拓榴市の馬屋につなぎ尻や肩を鞭打ったとしている。

10:00-11:00

大神神社

桜井市

「大神神社」を   >

三輪山を御神体とし大物主を祭神とする大神神社。古代では大伴氏がいた。通称「山の辺の道」沿いにある参道入口の大鳥居は巨大だ。こちらは二の鳥居。酒の神でもあるが名物は三輪そうめん。

10:00-11:00

箸墓古墳

孝霊天皇の皇女の墓として宮内庁の管理にあるが「箸墓古墳」の名が有名。「卑弥呼」の墓ではないかとされ「卑弥呼」の看板がいたるところに。大和の人にとっては「邪馬台国」はここなのだ。祭祀の山、三輪山を仰ぐ。

10:00-11:00

纏向石塚古墳

桜井市立纏向小学校の東にある「纏向石塚古墳」。全長約96mの前方後円墳。墳丘上部が削りとられている。付近にも同規模の古墳があり弥生時代後期から古墳時代前期初頭の古墳とみられ、石塚古墳が「箸墓古墳」の次につくられたよう。

10:00-11:00

纏向遺跡居館域

県営纏向住宅の中を線路近くまで行く。普通車は通れない踏切手前の右側に纏向遺跡はある。建物の基礎に柱が立てられている。「邪馬台国」の卑弥呼の宮殿跡とも。

11:00-12:00

黒塚古墳

天理市

「黒塚古墳」を   >

全長130mの前方後円墳。戦国時代には城が築かれたため盗掘を防いだよう。竪穴式石室の実物大模型や全銅鏡のレプリカを展示する古墳展示館は休館日であった。古墳は崇神天皇陵の北西にあり、周濠を持ち、公園としても整備されている。天理市民の憩いの場所でもある。

11:00-12:00

黒塚古墳。竪穴式石室は二上山麓の板石を持送りに積んで合掌造状の天井となっている。纏向古墳と同時期の4世紀初期の造営とされている。4世紀中期とされる長野県最大の前方後円墳「森将軍塚古墳」も同様な板石の持送りである。森将軍塚古墳では葺石と埴輪が周囲を覆っていたが、黒塚古墳は葺石と埴輪は出土していない。三角縁神獣鏡33面とそれより古い画文帯神獣鏡1面が発掘された。銅鏡は古いものしかなく3世紀中期には造営されていたとの見方もある。しかしその数はハンパない。ヤマト王権の地元であり「鏡はヤマト王権の支配の証し」ではなくなる。鏡面が内側に向けられており祭祀のもののよう。物部氏の勢力地でもあり大王家そのものでもある。

11:00-12:00

崇峻天皇山邊道勾岡上陵

黒塚古墳の憤頂から見た崇峻天皇陵。行燈(あんどん)山古墳と呼ばれている。全長242mで全国第16位。まるで山。天理市から桜井市にかけ古墳時代初期の古墳が集積している。物部氏が大王であったようだ。

13:00-14:00

石上神宮

天理市

「石上神宮」を   >

石上神宮の祭神は「布都御魂神」だが伊勢神宮と並ぶ最古の神宮である。物部氏の氏神でもある。日本書紀では物部氏の祖でヤマトの地の王であったニギハヤヒが神武天皇にこの地を譲り、祭祀・軍事を司り天皇家を支えて行く。ニギハヤヒの動きから物部氏は吉備から河内、大和に勢力を伸ばしている。日本書紀に百済から贈られたとされる「七枝刀」である「七支刀」が神宝としてあるが、物部氏が百済の王家であったとも。「新抄格勅符」には石上神宮の神戸80戸の内訳は、信濃50、大和20、備前10であり圧倒的に信濃に勢力を伸ばしていた。軍事を司っていた物部氏は軍馬の生産のため信濃などに多数の牧場を開き、東国も勢力に置いたのだ。天理・桜井の初期の古墳は物部氏であり、物部氏の勢力拡大に伴い各地に広まり、物部氏の衰退と共に古墳時代が終わっているとも見られる。

東大寺南大門

奈良市

「東大寺南大門」を   >

雨模様。翌日の行動を考え夕刻迫る中、奈良へ移動。県庁近くの有料駐車場に車を置き東大寺へ。南大門の金剛力士像の迫力は凄い。

15:00-16:00

東大寺金堂(大仏殿)

奈良市

「東大寺金堂(大仏殿)」を   >

高校の修学旅行で来た以来。やはり凄い。圧倒される。国家財政を破綻したとされる大仏殿建立。今や重要な観光資源。世界中から訪れる人が。

15:00-16:00

東大寺二月堂

奈良市

「東大寺二月堂」を   >

若狭井の井戸から汲み上げた水を本尊の十一面観世音菩薩に供える「お水取り」(修二会)。豪壮な火祭りだ。それに先立ち若狭の小浜市神宮寺では「お水送り」が行われる。朝鮮半島から流れる日本海の水を奈良の都に送る儀式だ。唐の支配を受けた統一新羅と平城京をつなぐ儀式のよう。

17:00-18:00

ホテル リガーレ春日野

「ホテル リガーレ春日野」を   >

ゆったりした部屋。

3日目2019年10月22日(火)
06:00-07:00

興福寺(奈良県奈良市)

奈良市

「興福寺(奈良県奈良市)」を   >

朝食前に興福寺と春日大社を回るためホテルを車で出た。昨日と同じ駐車場に車を置き興福寺に向かった。東金堂と五重塔はまだ暗い中だった。中金堂は柵があり中に入ってお詣りできなかった。

06:00-07:00

興福寺(奈良県奈良市)

奈良市

「興福寺(奈良県奈良市)」を   >

興福寺南円堂。西国三十三所第9番札所である。藤原氏の氏寺であった興福寺は金堂を三つ持つ大伽藍で国宝、重要文化財の宝庫だ。早朝でも南円堂横の売店と不動堂が開いていた。南円堂と不動堂を回り般若心経を唱える二人の若い僧がいた。

06:00-07:00

春日大社一の鳥居。真っ直ぐに伸びた参道は奥が見えない。御蓋山(春日山)は古代から神域だった。三輪山、大和三山と同様の山であり和珥(わに)氏の自然崇拝の山であった。なお和珥氏も藤原氏も伽耶が出自の同族との説もあり、藤原氏が奪った訳でもないらしい。

06:00-07:00

春日大社正面に立つ楼門。南門。この門の右手に由緒書がある。提灯は16弁菊。皇室の菊花紋は鎌倉時代に後鳥羽上皇の時から使われていたよう。ちなみに春日大社の神紋は「下がり藤」。

06:00-07:00

春日大社由緒書。祭神は武甕槌命(鹿島神宮の神)、経津主命(香取神宮の神)、天児屋根命(枚岡神社の神)、比売神( 天児屋根命の妻)と四つの神社の神を勧請している。武甕槌命と天児屋根命は中臣氏の氏神とされているが、河内と常陸は中臣氏の勢力地ではなかった。物部氏、蘇我氏などの古代豪族に代わり権力を手にして行く様子が「日本書紀」とともに四つの神が示してくれている。平城京を見下ろすこの地に神社を建て、さらに興福寺を建てた中臣(藤原)鎌足、不比等の意図が現れている。

06:00-07:00

春日大社本社本殿

奈良市

「春日大社本社本殿」を   >

早朝であったので本殿の参拝をしなかったが回廊を回って見た比売神の第四殿か。飛鳥の小原で生まれたとされる中臣(藤原)鎌足が河内や常陸に出自を増やしている。

07:00-08:00

奈良公園

奈良市

「奈良公園」を   >

奈良公園には朝の散歩をする方がチラホラ。雨上がりの奈良公園と霧が晴れてゆく若草山は朝焼けの雲とともに日本画のようであった。

07:00-08:00

ホテル リガーレ春日野

「ホテル リガーレ春日野」を   >

ホテルに戻り朝食。教職員の共済関係のホテルなのでそれらしい方が多い。売店で地元の「青垣出版」の歴史本を大量に買ってしまった。

10:00-11:00

大津サービスエリア(上り線) フードコート

大津市

「大津サービスエリア(上り線) フードコート」を   >

551蓬莱の豚まんのお土産希望があり、名神高速に迂回し大津SAに立ち寄る。奈良でもいろいろお土産を買ったが、豚まんが一番好評だった。

飛鳥・奈良 仏教伝来の地を巡る

1日目の旅ルート

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