メタボ大王さんの長野県の旅行記

古代伊那郡に秦氏・新羅と本田善光の影を追う
- 1日目2020年4月7日(火)
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元山白山神社
白山神社里宮。飯田市の風越山山麓にある里宮。江戸時代までは白山寺。随神門は市有形文化財。白山寺時代には仁王門だった。加賀白山を開いた(秦)泰澄大師によって奈良時代に開かれたとも伝わり、風越山山頂に白山権現を祀り、飯田歴代の領主により厚く信仰されてきた。
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白山神社里宮から見る風越山。山頂に奥社が残る。室町から江戸時代までは天台の大伽藍が続き山岳修行の場所でもあった。白山信仰の開祖泰澄も天台の開祖最澄も共に渡来の血筋であり、新羅から渡来した秦氏ともいわれる。美濃に広まった白山信仰は恵那山を越え南信濃へも伝播した。比叡の別院三井寺も「新羅明神」を鎮守とし白山権現を祀っていた。
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飯沼諏訪神社
飯沼諏訪神社の階段桜。300段を越える石段の両側に桜が植えられている。御柱の年にはこの急な石段で御柱を曳き上げる。坂の街飯田を象徴する階段。天孫系の神社が多い下伊那であるが、信濃を席巻した諏訪神も多い。
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からあげビリー
有名なボリュームある唐揚げ店だが客は数人、テイクアウトの弁当を購入。胸肉だから大きい割にさっぱり。コシヒカリのご飯もうまい。河岸段丘の伊那谷は古来陸稲が先に栽培されたらしい。
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県下でも最も古い舞台造りの小学校校舎。ニュースで放送されたので来てみたが、団体客がいないので寂しい限り。花吹雪を見ながら車の中で唐揚げ弁当を食べる。
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旧座光寺麻績学校校舎案内。明治5年に元善光寺(如来寺)に開校したが、明治7年に麻績神社の境内に舞台と学校を折衷した建物を建設。飯田・下伊那は人形芝居や歌舞伎が盛んだったためである。
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樹齢350年とも400年ともされ、老化と病気で樹勢が弱ったが地元の方の養生により復活した。5〜10枚の花弁が混在する日本で唯一の品種の半八重枝垂れ紅彼岸桜。
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添え木が地元の方の熱意を表している。これに答えるように見事な花を咲かせている。
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麻績の里 石塚桜
舞台桜の階段を降り右手に行くと古墳に見事な枝を広げる石塚桜がある。
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麻績の里 石塚桜
横穴式石室の古墳後期の円墳。石室に入ることもできる。付近には恒川郡衙遺跡や古墳も多く、古墳後期から飛鳥時代の豪族の墓か。定額寺「寂光寺」を創建し、本田善光を創作させた一族だろうか。
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麻績神社。八幡神(誉田別命)と諏訪神(建御名方命)を祀っている。古代伊那郡に麻績郷はあった。伊那は員弁(いなべ)=伊那部であり、摂津国河辺郡為奈(いな)に渡来した員弁の末裔ともされ、イナ、エナの地が伊勢、美濃、三河、伊豆にもあり、恵那山を越えたり天竜川を遡っている。麻績についても、「麻績」族、機織り・養蚕の秦氏、阿知の使主(おみ)などの説がある。いずれにしても渡来系である。善光寺縁起では信濃に仏像を運んだ者を当初、「秦巨瀬太夫」または「若麻績東人」としている。
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天竜川を挟んだ対岸は喬木(たかぎ)村。中央右端に韓郷(からくに)神社がある。左の上流は豊丘村。手前の左方向は高森町、伊那市でともに白髭神社がある。県内に8つの「しらが」神社があるが伊那谷に二つある。喬木は「高木」であり北九州に神社、地名などがある渡来の天孫族だ。「高森」も九州の阿蘇にある。
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団体の観光客がいなくなった元善光寺。人間の世界を素知らぬように満開の花。善光寺の縁起を記す8世紀の「扶桑略記」や「善光寺縁起」では難波の堀江から仏像を信濃国水内郡へとし、13世紀の「伊呂波字類抄」では信濃国若麻績東人が麻績郷へ運んだとしている。「麻績郷」は伊那郡と筑摩郡にあるが、縁起では伊那郡麻績郷の住人「本田善光」が難波の堀江から仏像を運んだとされた。奈良時代にこの地にあった定額寺「寂光寺」があったが、その後「如来寺」となり現在の「元善光寺」になったともいわれている。
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「元善光寺数え歌」。信仰は祈る人に添わなければならない。難しい法話ではなく、こんな数え歌が信仰を支える。
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本堂の奥に宝物殿があり、有料で内陣から通じている。長野の善光寺以上に古い宝物がそろっている。善光寺は10数回の火災があったとされ宝物も近年のものしかないが、こちらには仏像、仏画、法具など年代物の宝物がある。善光寺縁起などで後から創られた場所であるが、周辺の古墳、遺跡などや宝物を見ると「元善光寺」を納得させられる。源平盛衰記や平家物語では信濃に仏像を運んだ者が「本田善光」となるが、こちらの寺では「本多」としている。
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元善光寺平和殿から見る境内。平和殿には西国三十三番の札所の観音像があり霊場の砂踏みができる。霊場巡りをした方は結願の御礼に善光寺に詣ることになっている。境内には5千株のサツキがありまさに5月が見頃。
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祭神:誉田別尊(応神天皇)・息長足比賣命(神功皇后)・武内宿禰命。平安末期、信濃守護職の源為公が石清水八幡宮を勧請したとの伝承。鎌倉幕府の有力氏族の江馬北條氏が造営、禅刹開善寺も創建。北條氏没落後は小笠原氏が、江戸時代は飯田藩の藩主が庇護した。信濃小笠原氏の松尾小笠原氏が現在地(松尾)に遷座した。江馬北條氏は平氏であったが、小笠原氏は清和源氏の河内源氏を本姓とした義光流で甲斐国巨摩郡小笠原を出自としている。武田氏と同じく新羅三郎を祖とし、また、礼儀などの小笠原流の祖である。京都の秦氏の鎮守「松尾大社」があるがこの地の「松尾」と関係があるのか。飯田・下伊那には八幡社が多い。小笠原氏が八幡宮とともに「元善光寺」も庇護しただろう。河内源氏義光流を祖とする小笠原氏が「信濃の麻績に住む本田善光が難波の堀から仏像を背負い自宅に祀った」とする善光寺縁起を創ったとしても不思議ではない。
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鎌倉時代以降、軍神として八幡神は全国に普及する。源氏の新羅三郎義光から新羅、「白」が強調される。源頼朝は衰退していた善光寺の再建を命じているが、八幡神の祭神「誉田別命(ホンダワケノミコト)」などから「本田善光」が創られたとの説もある。
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拝殿の北側に武内宿禰命の神像復元記念碑があった。第12代から第16代の5代の天皇に仕えたという伝説上の忠臣で、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。 中世以降では、八幡神(応神天皇)の伴神として「高良社」などの境内社として祀られている。
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八幡宮境内の矢場。金的中の奉納札もたくさん掲示されていた。小笠原流もある弓道の伝統は今に引き継がれ、地元の女子高校は全国大会でも活躍している。
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八幡宮社頭にある江戸時代の道標。右は「志も志やう(しもじょう)」で阿南町から下条村を経て遠州に続く遠州街道。左は「あき者(あきは)道」で、上村(遠山)を経て秋葉神社に通じる秋葉街道。
- 2日目2020年4月8日(水)
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菱田春草を中心に下伊那の作家の絵画や書画骨董を愛したコレクターの蒐集品などを展示した美術館と中央構造線が通る伊那谷の自然・伝統文化がわかる博物館が一緒になった建物。
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美術博物館の庭にあるエドヒガン。支柱もなく樹齢推定400年の国内十指、県下一とも。飯田藩家老安富家近くにあったもので「安富桜」と呼ばれている。
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花びらが小さいためかすきずきしているが枝振りがよくわかる。樹高20m。
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安富桜の根元の幹。目通り周囲6.7m。
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美術博物館に入りまず右手の博物館へ。巨大な恐竜の化石が出迎えてくれる。
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1500万年前。飯田付近まで海が入り込んでいた。
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300万年前。赤石山脈や伊那谷が誕生。
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180万年前に天竜川に沿って塩嶺の溶岩流が流れ「みそべた層」が堆積。
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50万年前。伊那谷がほぼ形成された。中央構造線の断層がくっきりわかる。その右の南アルプスも幾重にも山脈がある。南アルプスは現在に至るまで世界的な早さで隆起を続けている。
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10万年前。木曽山脈(中央アルプス)が隆起。
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2万年前。隆起する南アルプスと木曽山脈に挟まれた狭い谷の中央に天竜川が流れ、木曽山脈からの支流が扇状地と河岸段丘を造って平坦地のない伊那谷を造る。
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糸魚川〜静岡の中央の白いホッサマグナ西端、中央諏訪から斜め左下に伸びる中央構造線など様々な地層が重なる伊那谷。急峻な山と川は全体が災害危険地帯であり陸の孤島のようであった南信濃は、信濃の先兵のような気質と、多様な文化芸能を残している。
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諏訪湖から流れる天竜川沿いに伊那谷がある。その東の小高い山塊と右側の南アルプス(赤石山脈)の間に諏訪から紀伊半島、四国、九州に続く中央構造線がはっきりわかる。ゼロ磁場の分杭峠などパワースポットがあるが、東は鹿島神宮から諏訪大社、豊川稲荷、伊勢神宮、高野山、剣山、石鎚山、阿蘇神社、幣立神宮までが並ぶ線でもある。
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中央構造線の断層が露呈した場所を再現。
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赤石山脈の名前の由来となった赤石はチャートであり、遠山川で見ることができる。手前のケースに左の上流から右の中流まで段々小さくなる。
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主な石の造られる場所。赤石山脈の赤い石のチャートは、放散虫の殻が海の底にたまってできた緻密な石。ちなみに北アルプス、中央アルプスは花崗岩なので、犀川、天竜川、木曽川には花崗岩が多く、八ヶ岳を水源とする千曲川は安山岩が多い。
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巨岩の豊富な伊那谷は、古墳の石室に見ることができる。弥生後期から古墳時代、飛鳥時代にかけ南信濃は科野(信濃)とヤマト王権の窓口として関西、東海地方の豪族との繋がりを強める。飯田古墳群は古墳中期から後期になるが巨石を使用した石室など規模も大きい。県下の前方後円墳の半数がある。御猿堂古墳から出土した「画文帯四仏四獣鏡」(国重文)を見たかったが展示はなく、係の方も知らないようだった。
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上部は飯田市妙前大塚古墳から出土した眉庇付冑(県宝)で、下部が鎧塚古墳から出土した短甲(よろい)。冑は頭部を護るヘルメットと頸部を護る「しころ」があり奈良県新沢千塚139号墳で同様のものが出土している。
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元善光寺近くの恒川官衙(ごんがかんが)遺跡から出土したと思われる「富本銭」と「和同開珎」の銀貨。富本銭は飛鳥池工房で鋳造されたもの。和同開珎の銀貨は東日本でも2枚だけ。富本銭の飛鳥の工房跡も最近になって発掘され、流通貨幣ではないと思われていたものでいかにヤマト王権とのつながりが強い者がこの地にいたかがわかる。和同開珎の銀貨もそうだ。
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近年まで人を寄せ付けなかった南信濃は文化芸能の宝庫であり、遠山郷は日本のチベットとも呼ばれ、下栗の里は日本のチロルとしてツアーの人気が高い。
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暴れ天竜を象徴する舳先。急峻な山と急流な川で自然災害も多かった深い谷間の村々で豊かな伝統文化を受け継いできた。過疎化する中で受け継ぐ者も少なくなっている。人形劇の宝庫でもあり、毎年飯田市で人形フェスティバルが開催されている。
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三河から入った手筒花火など、飯田・下伊那は花火が多い。清内路の手造り花火は見物だ。
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中央構造線に沿った諏訪〜大鹿〜遠山〜水窪〜相良(遠州灘)に続く道は太平洋からの塩の道でもあり、中世からは秋葉神社に参詣に行く「秋葉街道」であった。
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美術博物館の庭に置かれた伊那谷産出の巨石。古墳の石室や、神社仏閣、戦国時代の城などの石垣が目立つが、河川改修、道路整備、田畑の整備など、どれだけの石が使われてきたか。
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日本の民俗学を確立した柳田國男。兵庫県生まれだが旧飯田藩士で大審院判事をしていた柳田直平の4女と結婚、婿養子となった。東京成城の自宅を移築し記念館としている。
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並木通り。大宮神社までの桜並木となっている。中央通りまで下ると有名なりんご並木となる。
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小京都といわれ甘味処の和菓子店が多い飯田市。今日は、小さい子が多い家に行くのでこちらの洋菓子店でショートケーキを購入。
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