1. 宿・ホテル予約TOP >  みんなの旅行記 >  大町・北安曇を治めた仁科氏と国宝仁科神明宮

メタボ大王さんの長野県の旅行記

大町・北安曇を治めた仁科氏と国宝仁科神明宮

  • その他
  • 3人〜5人
  • 史跡・歴史

長野県内の神社で唯一国宝の本殿を持ち、国内の神明社としても唯一の国宝である大町市の仁科神明宮。2年前、北アルプスの雪形を追っていた頃に訪れた。伊勢神宮内宮でさえ国宝ではないのに何故国宝となったのか。神明造りの神社は20年毎に造替が行われることになっているが、仁科神明宮は寛永13年(1636)以降、修造に留まっていたことから国宝になったよう。神社の創建は「仁科濫觴記」という歴史書だけに登場する崇神天皇の末の太子・仁品王ともされ、王が開拓したので「大(王)町」と名付けたとされる。仁科三湖の木崎湖畔に仁科神社・阿部神社がありここを祖ともする。仁科氏は、仁科御厨を伊勢神宮領に献上、神明宮を護り自領の荘園も拡大し、先人の安曇族を凌駕し安曇一体を支配した時もあったよう。戦国時代となり武田信玄に滅ぼされたが、信玄は5男盛信に仁科の名跡を継がさせた。盛信は高遠城で織田軍と戦い自刃したが、和睦に応じず戦ったその姿は木曽義仲と共に長野県歌「信濃の国」の偉人「仁科の五郎信盛」と歌われている。仁科神明宮は、仁科氏衰退後は松本藩により庇護を受けたようだが造替はできなかったが、明治5年に郷社、同26年に県社として格上げされた。境内社に「簀(すのこ)社」として穂高神社を配下のようにぞんざいに扱っている。安曇地方を開拓した安曇族に代わってこの地を治めた仁科氏だが安曇族との争いがあったよう。「仁科濫觴記」に穂高にいた盗賊「八面大王」を征伐したことが記されており、八つ裂きされた遺体は、筑摩神社に首塚、大王わさび農場に胴体などがあるとされる。八面大王を安曇族とする説では、磐井の乱に加担して筑紫の八女から信濃に逃れた安曇氏を「八女(八面)大王」と呼んだとする。仁科氏の系譜も諸説あり、「仁科濫觴記」、「八面大王」や「日光泉小太郎」伝説、仁科神明宮に伝えられた神楽などにより伝えられている。今、安曇族や仁科氏もいないが、新たな物語が加わり真実は歴史の闇の中に混沌としている。日光泉小太郎伝説の犀川の難所山清路周辺では諏訪社(諏訪氏)と神明社(仁科氏)を相殿にした神社が多く、その時の支配者に気を遣った様子が伺える。

長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代

1日目2018年3月26日(月)

仁科神明宮

大町市

「仁科神明宮」を   >

仁科神明宮の一ノ鳥居。大町明科線の宮本という交差点に大きな看板があるので入口はわかる。それから河岸段丘を上がって曲がりくねった道を進むと一の鳥居となる。ここから真っ直ぐな参道が続く。江戸時代までは流鏑馬を行っていたのでこの直線を使用したのか。

境内入り口の社号標。右手に駐車場とトイレがある。

仁科神明宮の社叢

大町市

「仁科神明宮の社叢」を   >

境内入口に杉の大木がある。三本杉だったが真ん中の杉が風で倒木した。幹回5m、樹高50m。神明宮の社叢は杉、檜が主体の森であるが県の天然記念物となっている。

社務所から拝殿・本殿に上る石段と三ノ鳥居。

仁科神明宮

大町市

「仁科神明宮」を   >

仁科神明宮社殿案内図。拝殿、中門、釣屋、本殿と並ぶ。拝殿右に元御神木の切り株。

「仁科神明宮の大杉」と言われた元御神木。根回り15m、目通り9m超であったが、昭和55年に枯死した。本殿の後ろに現在の御神木があるが、混みすぎているような気もするが。

拝殿。非常に簡素。

国宝の中門、釣屋、本殿。千木は内削ぎで鰹木は6本。祭神は天照皇大神であり女神。これが神明造りなのか、非常に簡素。覆屋もないので屋根には杉の葉の落ち葉が。天気がいいので木立の中で暗くなってしまった。全国に5千とも1万8千社ともいわれる神明社唯一の国宝の建物がみすぼらしくなってしまった。

本殿奥の社叢。杉、檜を中心に栂、樅など1万9000uの広大な森。

神門の左右には境内社がある。こちらも暗くなってしまった。境内社に説明がついているが、神社側の考え方がわかるので追ってみた。

神門東側の神楽殿の脇に簀(すのこ)社。穂高神社を簀社としている。「仁科濫觴記」によると仁品王の重臣の穂高見と仁品王とに争いがあり都に上がり天皇に訴えた。そのことにより仁品王は心悩ませ穂高見を恨みながら亡くなった。それからは遷宮の度に境内社の穂高見の祠の屋根が壊れてしまったが、仁品王の神霊が怒っているためだとし、屋根の葺き替えをしないで簀子を置いて済ませるようになったという。穂高見(安曇族)を仁品王の配下としぞんざいな扱いの言い訳をしている。一方、安曇族の穂高神社は、本殿三棟の右側に「別宮神明社」として同列に祀っている。

武山社。大地主神。仁科濫觴記では臣下とされている。鎮座地の記載がなくこの地の神か。

神門西側に左回りに八幡社。鎮座地:石清水八幡宮

伊豆社。鎮座地:伊豆山神社

稲荷社。鎮座地:伏見稲荷大社

上加茂社。鎮座地:賀茂別雷神社(上賀茂神社)

下加茂社。鎮座地:賀茂御祖神社(下鴨神社)

上諏訪社。建南方富命で天照大神が使わした建御雷と力比べで負け、諏訪の国へ引き籠つと古事記にかかれているとしている。そのとおりだが、信濃の一の宮として信濃を席巻した諏訪神に対し、天照大神を奉ずる仁科神明宮の上から目線。

下諏訪社。諏訪大社下社は春宮、秋宮があり、祭神は建御名方命や八坂刀売命とされているが、こちらでは事代主を祭神とし、出雲の伊那佐の小浜で建御雷に言いくるめられ、あっさり国譲りを承知した神としている。下社の配神を事代主とするものもあるがこちらでは主神。

九頭竜社。「仁科濫觴記」では仁品王の臣下としている。九頭竜神は戸隠神社九頭竜社の祭神だ。戸隠神社は、奥社、中社、宝光社、九頭竜社、火之御子社の5社があり、天照大神の「天岩戸神話」にまつわる神々を祀り、平安時代末期には、比叡山や高野山と並んで修験者の道場とし有名だった。その九頭竜神を仁品王の配下としている。九頭竜は水の神で、戸隠を源として裾花川、犀川、千曲川となり越後のそそぐ信濃川ともされる。また、安曇地方には犀川を日本海まで開けた犀竜とその子「日光泉小太郎」の伝説が残っている。大きな湖だった安曇湖に住む犀竜と高梨の白龍の子が日光泉小太郎。犀川の難所:山清路などを母の犀竜に乗って突き崩す日光泉小太郎の像や絵本もある。安曇氏と諏訪氏による犀川開発を物語る。その功績話しに仁科氏も加わろうとしたのか。九頭竜を配下として。

子安社。鎮座地:浅間神社

下の傾斜地、社務所の東方に六つの有名な境内社。奥から順番に。熊野社、白山社、鹿島社、春日社、三島社、北野社。

熊野社。

白山社。

鹿島社。

春日社。朝廷とともにあった中臣(藤原)氏。瓊瓊杵尊と共に高天原に天下ったのは「新撰姓氏録」の神別の天神で物部氏、中臣氏、大伴氏などである。

三島社。東海随一と名高い伊豆の開拓神。

北野社。祭神を野見宿禰命と菅原道真公としている。鎮座地:北野天満宮。北野天満宮では祭神を菅原道真公としているが、菅原の祖が野見宿禰を祖とする「土師氏」の出身のよう。

社務所。右側に所蔵品展示室がある。

所蔵品展示室の展示物一覧。

伊勢神宮神祇道家からの証書か。仁科66郷の惣社としている。寛保3年(1733)。

鳥天狗面。神楽が伝承されており、それに使うものか。

赤天狗面。

手水舎の横に都波岐社。この社には千木と鰹木が付けられている。

祭神:猿田彦命。天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を出迎え、道案内したとされる神。鎮座地:伊勢の国一の宮 椿大神社。鈴鹿市。猿田彦大神を祀る神社は伊勢市にもありその名も「猿田彦神社」である。椿大神社は獅子舞の発祥地である。

都波岐社の東側に難湖社(右)と小さな疱瘡社(左)

難湖社。祭神:金山彦命。イザナミが火の神:迦具土を生む時に火傷し病み臥せる時、排泄物から生まれた神。防火に霊験があると言われている。と記されているが、イザナミの嘔吐物から化成した神。金山神を祭神にした南宮大社(岐阜県垂井町)は式内社で美濃国一宮。鉱山、金属業の総本宮とされている。大町市平に金山神社がある。ちなみに、イザナミの嘔吐物、大便、小便、死体から様々な神が生まれている。自然界では一つの死は他の生命の維持や新たな生命の誕生である。イザナギが腐敗したイザナミを見て黄泉の国から逃げ帰るが「古事記」は生命の死と誕生を冷静に見ている。

疱瘡社。可哀想なくらい簡素にした小社。屋根だけは付けてある。

疱瘡社 祭神 須佐男命。鎮座地 八坂神社。疱瘡神は、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で疫病神の一種。 「続日本紀」によれば、疱瘡は天平7年(735年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。外交を司る大宰府が外国人との接触が多く疱瘡の流行源となった。疱瘡は怨霊の祟りとも考えられたり、近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。また、「備後風土記」によれば、素盞嗚尊がこの地を旅されている時、一夜の宿を求めて大きな屋敷を構え栄えていた弟の巨旦将来を訪ねたが断られた。次に兄の蘇民将来を訪ねたところ、蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し温かくもてなした。蘇民将来は素盞嗚尊より疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びることができた。この伝承が基となり、素盞嗚尊をお祀りしている神社では「茅の輪くぐりの神事」が行われるようになった。素戔嗚尊を祀らなくても蘇民将来、茅の輪くぐりのある寺社は多い。

山清路

生坂村(東筑摩郡)

「山清路」を   >

犀川の難所大町市生坂の山清路。犀川は左手から来る金熊川と合流し右手の谷間の渓谷を長野市まで流れる。この下流にダムがあるので満々とした水をたたえている。

(旧)生坂村 山清路の郷 資料館 この日は休館日でした。

山清路。犀竜泉小太郎伝説。安曇市から長野市に至る犀川はまさに九頭竜、八岐大蛇のごとくうねって深い谷を作っている。上田市の小泉に上田地方の湖の岩盤を崩して千曲川を流した小泉小太郎の伝説が残っているが、全く同じ伝説。松本・安曇地方が湖だったのを、白龍と犀竜(諏訪大明神の使い)の子泉小太郎が母の背中に乗って山清路の山塊を崩して犀川の流れにする話しである。

大町市生坂:諏訪神明社。案内看板では「会神社」となっていた。諏訪社と神明社が相殿となっている。この周辺の神社にも、諏訪社と神明社と相殿にしたものが多く、その時の支配者に合わせていろいろな神を勧請している。

諏訪神明社本殿等の案内看板。

神社前の看板。山清路(寺)と寺の字を当てている。寺がある場合と地形を表す場合がある。左から流れる犀川に左上から金熊川が合流、更に右の山清路橋の下流で麻績川が合流してくる。

大町・北安曇を治めた仁科氏と国宝仁科神明宮

1日目の旅ルート

みんなのコメント(0件)

投稿する

投稿に際しては、必ず観光ガイドご利用規約をご確認ください。
皆様がより快適にご利用いただくための「投稿上のルール」や、
投稿内容の利用に関して記載しております。

閉じる

この旅行記は参考になりましたか?参考になった!2

この旅行記をもとに旅の計画をつくる
この旅行記をカスタマイズして、あなたの旅の計画を作りましょう

メタボ大王さんの他の旅行記

    • 家族(子連れ)
    • 6人〜9人

    娘夫婦から9月生まれの私達夫婦の誕生日祝いに東京ディズニーランドとディズニーシーへ招待された。3歳...

    671 6 0
  • いたばし・戸田橋花火大会を見る

    2023/8/5(土) 〜 2023/8/6(日)
    • 家族(子連れ)
    • 6人〜9人

    第70回戸田橋花火大会と第64回いたばし花火大会が4年ぶりに同時開催された。板橋に住む娘夫婦に誘...

    424 2 0
    • 友人
    • 3人〜5人

    善光寺縁起を記した「扶桑略記」の変遷の中で、「推古天皇10年(602)4月8日、秦巨勢太夫に信濃国へ請...

    161 0 0
    • 夫婦
    • 2人

    ブランド薬師を巡ってから真光寺ループ橋を上がり浅川ダム展望広場で浅川ダムを見る。紆余曲折を経て完...

    669 2 0
(C) Recruit Co., Ltd.