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メタボ大王さんの長野県の旅行記

阿智村の長岳寺と満蒙開拓平和記念館

  • 夫婦
  • 2人
  • 温泉
  • 史跡・歴史

新型コロナウイルス感染防止のため休止していた観光地の宿泊が再開されたので、県民限定のリーズナブルな宿泊プランで阿智村の昼神温泉に宿泊し、長岳寺、満蒙開拓平和記念館をめぐった。全国でも突出して多い開拓団員を送った長野県人は、親族に関係者を持つ者も多く各地の慰霊碑を見て育った。侵略としての満蒙開拓と敗戦国としての苦難の引き揚げ、更に新たな開拓地での苦難。長野県のリゾート地の中にもこうした開拓地も多い。多くを語らずに逝ってしまった父母達をここに連れてくれば涙ながらに何を語っただろう。同世代の語り部達の映像を見ながら、古代の防人、蝦夷征伐の時代から信濃・長野は、朝廷・国の先兵として先取りで生真面目な気質を受け継いできたように思えた。長岳寺の住職で自ら旧満州に赴いた山本慈昭は、家族を失いながらもシベリア抑留から帰国し、生涯を中国残留孤児の捜索に捧げた。師が一人で始めた活動は山崎豊子の小説「大地の子」にもなり、国を動かす大きな流れとなった。平和友好の碑に揮毫された長野県知事阿部守一氏の「前事不忘 後事之師」の言葉は重い。

長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代

1日目2020年6月4日(木)

昼神温泉郷

阿智村(下伊那郡)

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新型コロナで営業を休止していた温泉が警戒の一部解除で県民限定の宿泊を開始した。この割引プランに行ってきた。駐車場の空きがないくらい。

昼神温泉 癒楽(ゆら)の宿 清風苑

「昼神温泉 癒楽(ゆら)の宿 清風苑」を   >

新型コロナで営業休止していた砂塩風呂がある「癒楽の宿 清風苑」。県民限定のリーズナブルなプランで。

昼神温泉 癒楽(ゆら)の宿 清風苑

「昼神温泉 癒楽(ゆら)の宿 清風苑」を   >

夕食前に砂塩風呂に2時間近く。メキシコの塩とオーストラリアの砂を使用した砂風呂。砂風呂に15分。休憩室でヨモギやハーブのお茶を5杯位飲み1時間半位。すっかりデトックス。宿泊者は3300円、外来者は5000円と高めだが気持ちがいい。お腹も空き個室での食事も美味しい。少しの酒で酔いが回り部屋に帰りそのまま爆睡。

2日目2020年6月5日(金)

昼神温泉 癒楽(ゆら)の宿 清風苑

「昼神温泉 癒楽(ゆら)の宿 清風苑」を   >

午前6時に朝風呂。大浴場、露天風呂を一人占め。朝食は少し離した席で。

昼神温泉の朝市は終了したのかなかった。阿知川にかかる橋。阿智村、阿智神社と「智」だが、川は「知」である。渡来の「阿知使主(あちおみ)」の名残りか。阿智村は駒場村、昼神村などが合併して昼神村にあった「阿智神社」の「阿智」を付けた。駒場村には「安布知神社」があり「知」だが。川の名は昔からか。阿智村から現飯田市に入り天竜川に至る。

長岳寺(長野県阿智村)

阿智村(下伊那郡)

「長岳寺(長野県阿智村)」を   >

長岳寺の創建は弘仁6年(815)伝教大師最澄が東山道の難所である神坂峠に布施屋を建てたのが始まりとされ、信濃側に広拯院、美濃側に広済院が設けられ、長岳寺はその広拯院が前身とされる。

長岳寺(長野県阿智村)

阿智村(下伊那郡)

「長岳寺(長野県阿智村)」を   >

長岳寺の住職で自ら満州に赴いた山本慈昭は、ソ連軍の侵攻で妻子と引き離されシベリア抑留後帰国。妻と2人の娘は死亡、開拓団の8割は帰国できなかったと聞かされ、仲間の遺骨を拾うべく一人で中国政府と交渉を始めた。国交が回復される前の困難な時期に中国残留孤児からの手紙を契機に捜索を開始、その活動は山崎豊子の「大地の子」にも書かれ、国を動かす大きな流れとなった。孤児達にも様々なドラマを生んだが、師の不眠不休の活動は最後まで続いた。

武田信玄の遺灰供養塔。天正元年(1573)、信玄は三河侵攻による野田城攻略の際、病が重くなり、やむなく信濃に撤退していた途中駒馬の山中で亡った。当時の長岳寺住職が信玄の義兄弟であった為、密かに遺骸を境内まで運び裏山で荼毘にふしたと伝えられている。その後、灰を長岳寺境内に移し十三重塔を建立したよう。近くには歴史小説「武田信玄」を書いた新田次郎の句碑もあった。

芭蕉碑。芭蕉翁 「雪散るや 穂屋(ほや)の薄能(すすきの) 可(か)り残し」  宝暦年間に地元の俳人が建立したもの。

芭蕉句碑説明文。芭蕉の「猿蓑」詞書に「信濃路を過るに」で季語は雪。諏訪神社の御射山祭で薄を刈り穂屋(神事用の仮屋)をつくる慣習があり、神事の面影をしのびながら刈り残された侘しい枯れススキに雪が舞う寒々とした信濃路の冬を想像して詠んだ句と思われる。 (阿智村教育委員会)芭蕉は「更科紀行」で信州を旅しているが、諏訪には行っておらず神事を思っての心象風景を詠んだのではとされる。県内に同じ句碑が10基位あるよう。

森田草平終焉の地碑。漱石の門下生であった森田草平は疎開先の長岳寺で病死している。スキャンダルな事件を起こし、それを小説するなど波瀾万丈の人生の終焉をここで向かえた。

本堂に入るには200円。住職が案内してくれ、内部の撮影は禁止だが襖絵だけは言いと少し案内を始めたが「ゆっくりご覧下さい」と行ってしまった。山本慈昭翁は残留孤児探しに尽くしたが寺には金を掛けなかったようで、現住職も同様のよう。

阿智村在住の日本画家「吉川優」氏の襖絵。「春」 濃いピンクが桜との説明。

「夏」 沈み行く月と朝の光に照らされたアルプスと若葉の山々か。

「秋」白いアルプスと紅葉の山々。信州ならではの風景。

「冬」冬景色だが真ん中の道は皆が向かう西方浄土のよう。光が射しており阿弥陀様が迎えてくれそう。

満蒙開拓平和記念館

阿智村(下伊那郡)

「満蒙開拓平和記念館」を   >

旧満州(中国東北部)に入植した満蒙開拓団の苦難の歴史を伝え、平和の尊さを次世代に語り継ぐために設立された満州移民史を扱う日本で唯一の民間施設。残留孤児の捜索に生涯を捧げた山本慈昭翁の活動がこの地に記念館を造らせた。

こちらを訪問された(平成)天皇陛下御製歌碑。「戦の 終りし後の 難き日々を 面おだやかに 開拓者語る」 

天皇陛下御製碑説明。天皇皇后両陛下が平成28年11月17日にここをご視察された。

平和友好の碑。長野県知事阿部守一氏揮毫。下の大きな石には「前事不忘 後事之師」。

鎮魂碑。満州開拓団と満蒙開拓青少年義勇軍を合わせて32万人が渡った。長野県は3万8千人と全国のダントツトップで、山形、熊本、福島、新潟、宮城、岐阜、広島、東京と1万人台が続く。私の父母達も兵隊や義勇軍などで行った。敗戦での悲惨な逃避行と戦後の新たな開拓の苦労を聞きながら育った。多くを語らずに逝った父母だが、どんな親であれ親に代わりが無い。

阿智村の長岳寺と満蒙開拓平和記念館

1日目の旅ルート

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