メタボ大王さんの長野県の旅行記

飯田市上郷考古博物館
- 家族(子連れ)
- 3人〜5人
- 史跡・歴史
お盆のお墓参りを兼ね県下を縦断する機会に飯田市上郷考古博物館を観覧した。飯田・下伊那地方は古墳時代の馬の埋葬が全国的にも飛び抜けて多いが、馬の骨の発掘状況を展示した同博物館を訪問した。飯田市には28例の馬の埋葬が発掘されているが、古墳とは離れた場所が多く馬の墓のよう。埋葬された馬が3歳位の若い馬が多く祭祀に使われたとの説もあるが、ヤマト王権の軍事的最前線基地の様相を示している伊那郡は、東国、蝦夷の代表でいまだ軍門に下らない諏訪国との戦いで多くの軍馬が死んだのではないか。同博物館の資料では、諏訪郡が現在の伊那市付近までとなっており、戦場が近くにあったのではないか。生島足島神社、小野神社の由緒、東山道が諏訪を回避して松本から上田に出るなどの疑問とヤマト王権の前進基地のような伊那郡に多くの馬の埋葬があることは、諏訪国との激しい戦闘を物語っているのではないか。
長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代
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- 1日目2020年8月13日(木)
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旧上郷町の博物館。旧上郷町の遺跡から出土した石器、縄文、弥生、古墳時代のものを中心に展示している。圧巻はやはり埋葬された馬の発掘状況を展示したもの
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展示室に入るとまず野底山から出土したヒノキの大木と馬の骨の展示がある。時計回りに古墳時代から弥生、縄文、石器と時代を遡る。
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興味のある古墳時代から。飯田地方の古墳の分布状況。座光寺、上郷、松尾、竜丘の4つの単位群に分けられる。5世紀後半から6世紀にかけてヤマト王権の樹立に合わせるように、この地方に古墳が造られる。県下の前方後円墳の半数がここにある。その数と副葬品は目を見張るばかりだ。特に馬具と馬の埋葬は他を圧倒する。全国に突出する。ヤマト王権にとっていかに重要な場所であったかである。
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飯田市上郷別府の「宮垣外遺跡」のSK10から出土した馬のほぼ全身の骨。右が頭部で左が下腿部。宮垣外遺跡からは6例の馬の骨が出土しており、飯田市28、高森町2の30例がある。飯田市の28は全部5世紀後半のもので、高森町の2例は7世紀のもの。馬の埋葬地は古墳とは必ずしも一致しない。座光寺地区は古墳に近いが、その他は古墳とは関係ない場所で馬の墓地の様相。馬の骨もエナメル質の歯がほとんどで骨まで残るものは少ない。
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宮垣外遺跡SK10の馬の骨の説明。馬は半島からまず九州に、そしてヤマト王権東征の物語のように東に。足の短い馬だったようで、輸送、農耕、戦いの場に。馬一頭分の骨が出土しており馬を埋葬した土葬墓である。馬骨の遺存状態は良好であり、ほぼ全身の状態を確認することができた。馬はやや中心部がくぼむ土墳底部に頭部を南西側に向け、脚を折り曲げて馬体の左側を下にした横臥姿勢で出土した。土墳規模は馬一頭がちょうど入る大きさであり、馬は廃棄されたものではなく、意図的に埋葬されたものである。馬に伴う遺物はない。 出土遺物がなく時期決定の要因に乏しいが、覆土及びSK64の出土例や周辺の遺構分布から古墳時代中期とみられる。(2000年3月飯田市教育委員会:発掘報告書)
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馬具の出土品。上郷だけのためか数が少ない。飯田の馬の遺跡でも骨だけで伴出遺物は少ない。まして飾り金具のようなものはないよう。
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古墳からの出土品。左端は耳環、右側は馬具。馬の埋葬とは別に古墳の被葬者にも馬具や帯金具などを。
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古墳からの出土品。首飾りか。
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古代伊那郡と諏訪郡の状況。諏訪郡が現在の伊那市あたりまであった。伊那郡には小村、福地(智)、伴野、麻績、輔衆(ふす)の4郷があり、天竜川沿いの福地が一番広かったよう。郡衙が置かれたのは南の麻績郷で、古墳も馬も麻績郷の周辺で発掘されている。
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弥生時代。天竜川沿いの後背湿地などなどは稲作を行えたが河岸段丘上では陸稲のよう。ムラの形成から本格的に稲作が行われるようになると集落も大きくなり、定住と争いの時代になる。飯田市龍江の天竜川東岸の「細新遺跡」は弥生・古墳・平安時代の集落跡で竪穴住居址69軒が出土している。
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弥生時代の信濃の文化圏。信濃の北半分以上が「箱清水式土器」といわれる赤い土器の箱清水文化圏。諏訪湖周辺と伊那あたりまでが「橋原式文化圏」。南側は「座光寺原・中島式文化圏」。北は北陸地方の影響。南は東海地方の影響がみられ、諏訪はどちらも取り入れたよう。
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弥生時代後期の方形周溝墓。
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博物館のシンボルともなっている野底山で発見されたヒノキ。年輪年代法での測定した結果、紀元前317年から西暦93年に成長した弥生時代のものであることが分かった。今でも少しであるが弥生時代のヒノキの香を放っているよう。
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縄文時代の伊那谷南部の遺跡。天竜川沿いにもあるが河岸段丘の上の山麓に点在している。
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縄文土器・土偶。住居跡をみても狩猟ばかりでなく農耕も行って定住していた場所もある。
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飯田市山本の旧石器遺跡。驚くなかれ3万年前の火山灰より下から出土した「竹佐中原遺跡」と「石子原遺跡」の旧石器遺跡。
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飯田市山本の「竹佐中原遺跡」。平成10年、三遠南信道建設の際発見された。前・中期旧石器ねつ造事件のまっただ中で発掘された。中央道沿いの「石子原遺跡」の直ぐ南東であるが、後期旧石器時代の遺物で3〜5万年前とされ中部地方では最古の石器群であることが判明。
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竹佐中原遺跡から出土した石器。ねつ造に揺れた時期だが、これだけ出土すればねつ造も考えられない。阿知川で採取と推定される石を使用。黒曜石がない場所と含む場所がある。伊那谷は今でも馬ばかりでなくイノシシや熊鍋もある。ざざ虫や蜂の子なども。地蜂採りに山野を駆け巡る時は古代人の血がそのまま流れている。マムシやスズメバチ採りはまさに命懸け。「ボーッとしている奴」はいない。
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石子原遺跡。昭和47年、中央道建設の際発掘され、前期旧石器の存在の可否を含めて注目される遺跡。
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石子原遺跡からの出土石器。竹佐中原遺跡より西側の遺跡ながら、赤石山系の竜東の石で造られた石器のよう。天竜川を越えてわざわざ運んで来たのか。3万年以上前の御先祖様は狩猟採取の移動生活の中で天竜川の右岸と左岸を行き来していたよう。
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風越山は飯田市民の山だが古代から聖山でもあった。上郷考古博物館から望む風越山。
飯田市上郷考古博物館
1日目の旅ルート
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