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メタボ大王さんの長野県の旅行記

馬神古墳と両郡橋・小田切ダム

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  • 史跡・歴史

長野市安茂里の山塊が犀川に落ち込む先端に前方後円墳の馬神(まがみ)古墳がある。眼下に犀川と川中島平を望むことができる。更級郡と水内郡を分けていた犀川に架かる両郡橋。安曇野市明科から蛇行した渓谷を流れてきた犀川がここで善光寺・川中島平に向け川幅を広げる。堤防のない時代は両郡橋を扇頂部に扇状地を作っただろう。この地は安茂里「小市」であり伊予の「小市国造」との関係も推定されるがいずれにしても古墳の被葬者は千曲川と犀川が作る広大な湿地帯を見ていたはずだ。水内郡では最も古いと見られる古墳で最初に水内を開拓した首長だ。昨年の台風19号で千曲川の堤防が決壊したが、「水内(みのち)郡」はその名のとおり水との闘いの歴史であった。しかし、その水を開拓し伊那郡に次ぐ石高を誇っていた。両郡橋の直ぐ下流にある江戸時代の丹波島宿では加賀藩へ毎年三千本もの鮭を送ったとも云われているので古代ではどの位の遡上があったのか。馬神から吉窪に続く山中に古墳が点在し吉窪には地蔵群と観音堂がある。小さな集落だが裾花凝灰岩の白い地滑り地帯に張り付くように悠久の歴史を刻んでいる。

長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代

1日目2020年8月16日(日)

両郡橋

旧更級郡と水内郡の境界である犀川に架かる両郡橋。明科から狭い渓谷をぬうように流れてきた犀川はここを出て一気に広がる。

両郡橋から馬神古墳方向を見上げる。左手の尾根の頂上に古墳がある。裾花凝灰岩の白土が露わになっているが、善光寺地震(1847年)により崩落、断崖になったといわれている。

小田切ダム

東京電力小田切ダム。犀川には明科からここまで東京電力の発電所が5つあり最後の発電所となる。

新橋平和観音

両郡橋から安茂里方向に約600mの平和観音の案内がある横断歩道(標識)を左折し山道(古くは戸隠街道・馬神街道とも)に入る。車一台がやっと通れる狭い道をつづら折りに上ると観音像と五重の塔が見える。新しい墓地で東屋があり見晴らしがいい。

更に狭い白土の道を慎重に上る。普通車では怖い。軽自動車の四駆でも急カーブの連続で冷や汗ものだ。「古墳マップ」の調査者が冬の雪のある時期に車を諦めて徒歩で調査されているが頭が下がる。

道路脇にあった馬神古墳案内板。ここからバックで林の中へ。1台分の駐車場所がある。右手の畑の方の車道を進むとすぐ左の林に馬神古墳の陪塚と馬神古墳がある。雑木林となっており案内看板もない。

馬神古墳

陪塚3基の奥にある前方後円墳。全長30.5m。後円部直径18m、高さ2.0m、前方部幅10m、長さ13m、高さ1m。水内郡の中では最も古いとみられている。

後円部墳頂から前方部方向を見る。墳頂に石が置いてあるが竪穴式石室の天井石なのかは不明。兎に角鳥の鳴き声が激しく招かざる客のようであった。雑木林の豊かさが熊のテリトリーであることを教えてくれる。

草で輪郭がわからなかったため11/1に再訪。回りの土を少し取り除いたか。

葉が落ちたので後円部の様子がわかる。

前方後円墳の全体。左手が前方部、右手が後円墳。雑木林でわかりずらいが。

陪塚イ(「古墳マップ」の呼称)。前方後円墳の北側に三つの丸い山があるので陪塚はわかり易い。直径はいずれも10m位。

陪塚ロ(同)

陪塚ロの竪穴式石室が露出。落ち葉が埋まっている。円墳でも竪穴式。

陪塚ハ。こちらは自然地形のよう。いくらか低い。

馬神古墳を南方に下るとフェンスで防護された見晴らしのよい場所がある。前方は崖となっている。犀川の右岸は篠ノ井小松原。右の山には小松原城があった。裾野には馬神古墳を上回る全長43mの腰村前方後円墳がある。

川中島方面を望む。前方の山裾を右から左に千曲川が流れ落合橋で犀川と合流する。犀川下流の左端に小さな橋が小市橋。左岸左手に小市団地。「小市」とは伊予の小市国造と関係があるか。長野市内には「芹田」の地名があり「芹田物部」との関係が指摘されている。排仏派として蘇我氏に破れた物部氏の影が北信濃に残っている。

馬神古墳から更に山を登ると三叉路がある。左の馬神古墳から上がってきて左手が吉窪方向。右手への道は栃久保や鬼無里を経て戸隠に通じる。吉窪への山道は狭くつづら折り。

吉窪古墳3号4号古墳入口の案内板。車道はすれ違いができないくらいに狭く付近に駐車場所がなかったので路上に駐車。地元の方が結構通る。11/1再訪するとこの左手に熊の檻が置いてあり中にエサのリンゴがあったので車を降りないであわてて出発した。

吉窪3号古墳の案内。木立でわかりずらいが円墳。

吉窪古墳3号墳

吉窪3号墳は石室天井石が崩落し内部が露出している。薄暗い杉林の中であるが、古墳時代はブナやクヌギなどの雑木林でもっと明るかっただろう。車でも大変な山の中にこれだけの巨石をどのように運んだものか。現代でも重機が入らない場所だ。

吉窪古墳4号墳

吉窪4号墳。3号墳に隣接して南側にある。

吉窪古墳4号墳

吉窪4号墳。円墳だが竪穴式のようで巨大な天井石がある。3号墳も4号墳も盗掘のため破壊されたのか。

吉窪3・4号墳から更に吉窪方向に山道を上ると右側に畑となる。その脇に吉窪2号墳がある。

2号墳から直ぐ左に「吉窪城址」の案内板。戦国時代の城跡で吉窪古墳の主槨がある場所であるが熊を警戒し上らなかった。ちなみに吉窪城趾は標高619m。馬神古墳が541mなので81m近く高い。

吉窪城趾入口から直ぐ右手に1号墳がある。半分位削られたようでもあり墳頂には岩が出ている。案内がなければ古墳とは気づかない。

1号墳から吉窪に下る途中にお地蔵さんが50基位。水子や幼くして亡くなった子供のためのものか。成人の墓とは別にするようであるが賽の河原の物語は非常に悲しい。寂しくないようたくさん集めて供養したのかも。

時頼山西明寺

長野市

「時頼山西明寺」を   >

地蔵群を降りると吉窪集落になる。大きな西明寺の案内看板がある。信濃33番札所第8番札所。裾花凝灰岩が崩れた窪地に7,8軒の家がある。集落の半分位の面積に太陽光発電のパネルが設置してある。

時頼山西明寺

長野市

「時頼山西明寺」を   >

中世の頃、北条時頼が出家して西明寺入道と名乗り諸国を巡っていた時にこの地を訪れて、馬神地籍に祀られていた吉窪観音のお堂に時頼山西明寺と名付けたと伝えられている。この地に来てからも火災等で喪失したが地元の方が再建、小川村の高山寺から千手観音を迎えて安置したよう。古墳を造った末裔が中世の吉窪城を造り観音堂を護っている。

小田切ダム

吉窪集落を降りてくると小田切ダム湖になる。犀川の右岸に国道19号が走っている。

1日目の旅ルート

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