メタボ大王さんの長野県の旅行記
旧四賀村の錦織の里から会田宿、立峠まで
- 夫婦
- 2人
- 史跡・歴史
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松本の刈谷原峠を越えて旧四賀村へ。古代の東山道、中世の善光寺西街道を巡った。奈良時代の「倭名類聚鈔」では「筑摩郡(つかまごおり)錦服郷」とある。東山道の駅屋として錦織(にしごり)で平安初期には筑摩郡の定額寺として「錦織寺」があった。テニスの錦織選手で有名となったこの名も出雲では「にしごり」だが千葉県では「にしきおり」となる。百済系の渡来人で着物を扱う錦織部の氏姓で「錦織」、「錦部」などの表記があるよう。現在も福寿草の群生地「赤怒田」には錦織(にしごり)神社があるが、地名は錦部(にしきべ)となっている。「錦織寺」の場所は特定されていないが、会田川を下ると明科で信濃最古の寺ではないかとされている明科廃寺があり、この近辺に寺を造るだけの氏族がいたのだろう。近くの斉田原には須恵器の窯跡群も発掘されている。錦織寺は刈谷原町にある真言宗の「洞光寺」が比定されている。善光寺街道の要所であった会田宿から立峠(たちとうげ)に登る途中に岩井堂観音堂があり弘法大師信仰が残る。観音堂の千手観音も立派だが周辺の磨崖仏など石仏群もすばらしい。会田盆地の錦織の里から聖山山麓の麻績の里までは古代から中世にかけて大伽藍が続き、修験の道でもあった。会田盆地は真言宗、立峠を越えて筑北、麻績では天台宗の寺がその勢力を誇っていたよう。
長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代
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- 1日目2021年2月21日(日)
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古代東山道が通り、中世では善光寺西街道として刈谷原宿があった。松本藩の殿様はここから保福寺峠を抜け上田、追分で中山道に入り江戸へ出たよう。現在トンネルがあるのでこの宿場跡を通らない。
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保福寺町
保福寺峠に向かう上り口から会田盆地を見る。右手の山裾が赤怒田(あかぬた)で錦織の里。左手は金山町である。奥に見える山は有明山と雪が残る大天井岳から燕岳の稜線。
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古くは真言宗であったが文亀2年(1502年)以後は曹洞宗寺院。山中にあったものが山麓に降りたよう。
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保福寺宿
保福寺宿場跡には本陣であった小澤家が残っているが、こちらの家の門も往時を偲ばせる。
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保福寺町から見る常念岳と横通岳の鞍部に槍ヶ岳の槍が顔を覗かせている。
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信州ゴールデンキャッスル
保福寺川を西に渡った金山町にある西洋風なお城。居酒屋「養老乃瀧」の創業者が故郷に建てたもの。40代になってから一代で居酒屋グループを築いた立志伝中の人。現在は一般人の見学はできない。全国から集めた巨石と創業者の碑文を読むだけでも時間がかかる。ここは江戸時代に幕府領の鉛鉱山があったようで金山町。
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錦織神社
赤怒田(あかぬた)地区の産土神を祀る錦織(にしごり)神社。平安時代からの富士山信仰の浅間社に大正年間、近隣の村の秋葉社、八幡社を合祀し古代の名前を復活したよう。ケモノ除けのフェンスがあり里宮まではコンクリートの急坂。山頂に浅間社の奥社があるよう。里宮には、松本藩から坂木陣屋支配となった時、天災、大飢饉の際、年貢の減免、開田をした代官天野助次郎を大恩人として人神として祀り、月初めと月中に参拝したことなどが記されていた。
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長野県内には各地に福寿草の群生地があるがここは50万株との紹介文もある。毎年祭りを行っているがコロナのため昨年から中止になっているよう。(3/9)
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錦部郵便局
古代の駅家があった「錦織」(にしごり)。現在その地名はなく錦部(にしきべ)となっている。同名の郵便局がある。奈良時代の「倭名類聚鈔」では「筑摩郡(つかまごおり)錦服郷」となっている。いずれも「にしごり」とも読むよう。
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館内にはクジラの大きな化石が展示してありびっくり。穴沢川や保福寺川からクジラなどの化石が出土している。子供連れの方が多い。
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博物館には世界中の動物のはく製もある。小さな村がよくこれだけのものを集めたものだ。
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洞光寺
真言宗の寺。平安初期の天長年間に弘法大師の開基との伝承。貞観8年(866)、定額寺に信濃の5ヶ寺が指定されているが筑摩郡の「錦織寺」がこの寺に比定されている。この寺も移転しており錦織寺の位置も特定されていない。本堂には長野県宝の「絹本着色真言八祖像」があるが、江戸時代、河内国錦部郡「観心寺」からもたらされたとしている。現在この付近を「錦部」と呼称しているが何か関係するのだろうか。
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斉田原窯跡
須恵器の窯跡。8世紀から9世紀に松本市北部の芥子坊主山から会田盆地西部にかけての一帯が須恵器の窯業生産地であり、この斉田原地区には11基以上の窯跡が見つかり、遺物の中には7世紀まで遡るものもあったよう。錦織寺の位置は不明であるが、それ以前に建てられた可能性のある信濃最古の明科廃寺は会田川を下った明科にある。明科廃寺の軒丸瓦は藤原期の特殊な形状で甲斐の国で造られたようだが、須恵器の窯があったこの地で造られなかった理由はなんだっただろう。軍事施設でもあった古代の寺は造立技術も秘密だったかもしれない。
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鍛冶屋在家から見る会田(宿)と虚空蔵山、立峠。右手の富士山のような山が虚空蔵山。別名「会田富士」。旧四賀村のシンボル。戦国時代、会田氏の居城もあったよう。その左斜面の鞍部が立峠。善光寺西街道最大の難所。「在家」がついた地名。
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取出にある坊主山クラインガルテン(滞在型市民農園)。坊主山の地名は形状からか仏教の名残りか。保福寺川と穴沢川に挟まれた丘陵地。クラインガルテンは風越峠に上がる緑ガ丘にもある。都会の方に人気があるよう。
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善光寺西街道。会田宿の本町。最大の難所立峠へ向かう直線の坂道。
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善光寺常夜燈
町はづれに1855(安政2)年建立の善光寺常夜灯がある。
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芭蕉句碑
更に少し上ると右側に石碑がいくつか並んでおり芭蕉の句碑もある。「身丹志み亭 大根からし 秋乃風」江戸の俳人桜井梅室の書。芭蕉の「更級紀行」の句。梅室の弟子で地元矢久の西沢梅朗が書を依頼、地元の長越(現中川)の松翁亭中村一翠が1849年建立した。尚、同じ句の碑が坂城町、伊那市、麻績村もあるよう。やはり辛いネズミ大根で有名な坂城町で詠んだ句と思っていた。
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完全予約制の手打ちそば「 ほそばら」。地区の名である細原をそのままひらがなで。女将さんが一人でやっている。飛び込みであったが快く入れてくれた。ロケにきた俳優などの色紙が堆く積まれていた。そばや野沢菜漬け、煮物もうまかった。話し好きの女将さんが収集したお宝は趣味の域を越えていた。
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峠に行く道から観音堂の屋根が見える。周辺には磨崖仏2体の他、百体観音の内52体など石造物群がある。虚空蔵山を含めた石仏群を見るには1日かかるだろう。
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観音堂に入ると自動的に電気が付いた。千手観音が金色に輝いており思わずこちらも合掌。善光寺街道、または北国西往還の難所といわれた立峠を通る旅人は、旅の安全を祈ったであろう。
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観音堂右手にある磨崖仏。地蔵で高さ210p。
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更に右手に回った倒木で進めない岩に磨崖仏。大黒天のよう。
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観音堂の脇に小堂があり弘法大師像等が祀られていた。
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観音堂を左手に上がった所の巨石から見る会田盆地。丘陵地の向こうは松本盆地。岩の下方に善光寺街道があり、左方が立峠。観音堂とこの景色に旅の疲れを癒やしたかも。
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立峠の下りになるところにある切り通し。左手を上ると唐鳥屋城跡、右手を上ると虚空蔵山の岩屋神社となる。ここから北側の斜面となりつづら折りの山道には雪も残り氷が張ってツルツルの場所もあった。おそるおそる下った所は乱橋。現在、長野道の立峠トンネルは5分足らずで通過してしまい、峠を越えた人々に思いを寄せる間もない。
旧四賀村の錦織の里から会田宿、立峠まで
1日目の旅ルート
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