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雪乃さんの兵庫県の旅行記

剣がすべての時代に生きた武士 宮本武蔵  宮本武蔵の産湯の地  今、武蔵殿に会いに行く 西播磨の旅

  • その他
  • 3人〜5人
  • リゾート
  • 史跡・歴史

剣豪・宮本武蔵 今や世界の武蔵と言われる。武蔵殿の五輪書 火の巻から現代の時代への生き方のヒントを解く。

京都ツウ 雪乃さん 女性 / 50代

1日目2021年2月16日(火)
10:00-10:00

姫路城大手門

姫路市

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姫路城 集合 11時出発 大手前門の信号付近。この右手から入ります。 車で出発。

石海神社

太子町(揖保郡)

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宮本武蔵  天正12年(1584年)3月生まれる。生誕地は兵庫県印南郡米田村(高砂市米田町)揖東郡宮本村(揖保郡太子町)等の説があり、住宅街の中に石海神社は建つ。揖保郡太子町 石海神社 ご祭神は舎人親王 日本書紀の編集者である。 武蔵殿が晩年に記した「五輪書」に「生国 播磨の武士」と書かれ、そして「播磨郡 斑鳩ノ法ノ産ナリ」(太子町 石海神社)と記載されている。武蔵の生家跡と言い伝えられていた場所に古井戸が残存している。

10:00-11:00

石海神社

太子町(揖保郡)

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兵庫県揖保郡太子町宮本168 石海神社は明治32年(1899年)の再建で宝暦年間(1751年〜1764年)の大火災で武蔵殿に関する史料などを焼失しさらに明治20年(1887年)にも大火災に見舞われすべての史料がなくなってしまった。

石海神社

太子町(揖保郡)

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武蔵殿 産湯井戸 看板 天正16年(1588年)武蔵殿 5歳 田原家より美作(岡山県大原町)の平田家に養子に出される。

石海神社

太子町(揖保郡)

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宮本武蔵がはじめて湯につかった古井戸と言われている。今も残存しているのだ。 武蔵殿がはじめてここで産湯につかる。石の浴槽は浅いが、武蔵殿がつかったと思うと感慨深くなる。

石海神社

太子町(揖保郡)

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逆さ鯨の由来が掛かれています。

石海神社

太子町(揖保郡)

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明治32年(1899年)の再建で宝暦年間(1751年〜1764年)の大火災で村の大半が焼失する。その際、この鯨の木も地面より3.5pを残し、無残な姿となったが根だけが生き延びたのだ。それから長い年月を経て新しく芽を吹きだし、昭和50年には地元の住民により補強されてきたのだった。

世界の梅公園

たつの市

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世界の梅公園(3月25日以降は入園料400円)瀬戸内海を一望できる梅公園は日本・中国・台湾・韓国など世界の梅、約315品種の梅を見ることが出来る。

室津(兵庫県たつの市)

たつの市

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播磨シーサイドロードを通ると室津の町に出会います。漁師の町、美しい風景がいつまでも人のこころを和ませます。

圓光寺(兵庫県たつの市)

たつの市

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武蔵殿 修練道場 龍野御坊  山門 閻光寺兵庫県たつの市龍野町下川原101

圓光寺(兵庫県たつの市)

たつの市

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慶長2年 圓光寺を訪れ2年間の修業を行う。 開基は多田祐全、源家菩提のため、出家して天台宗の学僧となる。 後に蓮如上人の教えを受け浄土真宗に帰依したてまつる。 蓮如上人の直弟子となり命令を受け道場を開く。 歴史が深く文人との交流も多彩。 文明道場と呼ばれのちには播磨の国には浄土真宗が広まり播磨浄土真宗の始点とされている。天正6年には豊臣秀吉の命令により龍野に境内を賜り江戸時代には龍野御坊と称し、播磨六坊のひとつとして現在に至る。 龍野御坊 圓光寺は山陽道に近い名刹として古来多くの念仏者や文人客を迎えた。多彩な客人の中に剣豪・宮本武蔵 殿がいた。

圓光寺(兵庫県たつの市)

たつの市

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宮本武蔵 修練の地 石碑 武蔵殿が13歳のとき、兵庫県佐用町平福で新当流 兵法者 有馬喜兵衛に勝ち、 14歳多くの剣士の集まる龍野で旅装を解き、約2年間圓光寺道場で鍛錬の後、 武者修行に旅立ち但馬の兵法者 秋山新左衛門に討ち勝った。 のちに慶長5年(1600年)武蔵殿17歳のとき関ケ原合戦に出陣したが戦に敗れ龍野へ 帰る。武蔵殿 18歳である。 この時の住職は第六代 多田祐仙であった。 多田源氏の系譜を継ぎ、石山本願寺の法難にも果敢に戦った当時の圓光寺にすると 武道は欠かせないものであり寺の武芸道場で「圓光流兵法」を伝えている。 武蔵殿は圓光寺で圓光寺流兵法を学ぶ。 しかし武蔵殿は岡山・美作で過ごした少年時代養父から右手に太刀、左手に十手槍を持つ槍術を習得していたのだ。 慶長6年(1601年) 二刀法式を圓光流に加え「圓明一流」という武蔵独自の兵法をこの道場で創出して見せ定着させたのだった。二刀によって描く「閻」に完全無欠差を表し、「明」には並みの人には見えないものを見分ける明るさを表したものと伝えている。

武蔵初決闘の場

佐用町(佐用郡)

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慶長1年(1596年)佐用町平福にてはじめての決闘 新当流の兵法者 有馬喜兵衛に勝つ。 兵庫県佐用町平福  

武蔵初決闘の場

佐用町(佐用郡)

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武蔵殿 13歳 初決闘

初決闘の様子が看板に記されている。

武蔵初決闘の場

佐用町(佐用郡)

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何人たりとも 望みしだい 手を合わせいたすべし われこそ 日下無双の 兵法ものなり 有馬 喜兵衛 武蔵殿の五輪書 火の巻 武蔵殿は云う。 人が平常心を失うのは 一、危険に直面した際 二、困難に遭遇した際 三、予想外の展開が生じた際 剣がすべての時代に生きた武蔵 殿にとっては 上の三つが常に頭の中にあり、いかなる災難がふりかかるであろう前に 己の中で準備をしておくことを剣の上達以前に習得していたのだろう。 まさに現在は見えない敵とだれもが戦っている。 そして武蔵殿は 「心の持ちようは常の心に替る事なかれ」とも言っている。 最も大事なのは平常心なのである。 すぐに取り入れることは至難でもあるが武蔵殿は常に戦っていた。 剣がすべての時代に生きた悲しい人物でもあるのだ。だが現在は剣という武器ではないがもし武蔵 殿が今の時代に生きていたら武器は何になるのだろう。 現在の生きていく上での武器は自分自身が今日まで人生で経験し培ったものであり 旅に出て何かを目にした自分を見つめなおす 繰り返しである。 それが身を守る 処世術となり それこそが現代の大事な我々の武器なのだ。 剣がすべての時代に生きた 武蔵殿のように常に平常心を持ちたいものである。

17:00-17:00

リブマックスリゾート瀬戸内シーフロント

たつの市

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歴史ざんまいのあとはこちらのホテルで今度はドラマティックで素敵な夜景と食事に温泉♪一日を振り返り このホテルを選んで正解でした。ごはんが美味しかったし、スタッフがとても親切でした。

剣がすべての時代に生きた武士 宮本武蔵  宮本武蔵の産湯の地  今、武蔵殿に会いに行く 西播磨の旅

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