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メタボ大王さんの長野県の旅行記

大鹿村と中央構造線

  • 家族(子連れ)
  • 3人〜5人
  • 温泉
  • 史跡・歴史
  • 自然
  • グルメ

中央構造線は 関東地方から九州地方まで1,000kmにも及ぶ日本最大級の断層で、日本列島がまだアジア大陸の一部だった中生代白亜紀後期(約1億年前)にこの大陸の中で生じた。大鹿村中央構造線博物館は中央構造線のほぼ真上に建っている。東に赤石岳を望み、西は「三六災害」での大西山崩壊の生々しい傷跡が眼前に迫る。中央構造線上には神話に纏わる場所や神聖な場所が多くあり、諏訪大社〜分杭峠(ゼロ磁場)〜秋葉神社〜豊川稲荷〜伊勢神宮〜吉野〜高野山〜淡路島〜剣山〜石鎚山〜阿蘇山〜幣立神宮をパワースポットとするものもある。更に関東の氷川神社、香取神宮、鹿島神宮を加えるものも。大鹿村を40年ぶりに訪ねたが、リニア中央新幹線のトンネル掘削工事に伴う残土運搬のダンプがひっきりなしに通り、のどかな山村のイメージは一変していた。現在も隆起を続ける南アルプスと複雑な断層が重なった非常に脆弱な中央構造線を横断する初めてのトンネル工事の一端を垣間見ることができた。後醍醐天皇の皇子で南北朝第一の歌人と称される宗良(むねよし)親王は、熊野、遠江:井伊谷、そして最後に大鹿を拠点に北朝との戦いに臨んでいるが中央構造線に沿って移動している。「日本で最も美しい村」とされる大鹿村はリニア中央新幹線トンネル工事を固唾を飲んで見守っている。

長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代

1日目2021年12月8日(水)
12:00-13:00

カジュアルステーキぎゅう

飯田市上郷黒田にあるリーズナブルなステーキ屋「カジュアルステーキぎゅう」で昼食。人気店なので予約して行ったほうかいいが今回は飛び込みで。30分程近くの公園や車中で待つ。

12:00-13:00

カジュアルステーキぎゅう

180グラムのオージー・ビーフのカジュアルステーキにサラダ、ライスのAセットで1595円。肉が軟らかく美味しい上に6種類のタレが飽きさせない。小ぶりのナイフが良く切れる。

12:00-13:00

メニュー看板。平日の昼時で女性が多かった。ライスがいまいちだが、肉が美味しくこの値段に大満足。

20:00-21:00

殿岡温泉 湯元 湯〜眠

「殿岡温泉 湯元 湯〜眠」を   >

朝食バイキング付プラン(6580円)で宿泊。地下1500mから汲み上げた源泉100%の天然温泉の大浴場は日帰り温泉でもある。広い駐車場がほぼ満車。1階にレストラン、2階に休憩場所と個室の宴会場が。忘年会か賑わいが戻ってきている様子。

2日目2021年12月9日(木)
07:00-08:00

殿岡温泉 湯元 湯〜眠

飯田市

「殿岡温泉 湯元 湯〜眠」を   >

天然温泉は5:00〜24:00。5時に目が覚めていたが6時過ぎに朝風呂へ。朝日を浴びる風越山ごしに摺古木山と白く雪を被るのは安平路山へ続く稜線か。朝食バイキングもまずまず。天然温泉の大浴場(露天風呂付き)でコスパは最高。 

09:00-10:00

天龍橋

松川インター大鹿線の天竜橋の東詰の中川村から南駒ヶ岳、空木岳などの中央アルプスと上伊那方面を望む。ここで天竜川に片桐松川と小渋川が合流している。ここから大鹿村へは小渋川右岸のつづら折りの道が続く。

09:00-10:00

望遠で見る中央アルプス。仙涯嶺、南駒ヶ岳、空木岳、檜尾岳などか。

09:00-10:00

小渋川の右岸道路を上りはじめるとひっきりなしにダンプとすれ違う。JR東海のリニア中央新幹線のトンネル工事に伴う残土の運搬は膨大である。ダンプの通行のためか新しいトンネルも開いていた。この場所は小渋ダムの下流だが、川底の砂礫を堤防に積み上げたものか。小渋川を上って行くと川には大きな石はほとんどなく、川底に溜まっているのは膨大な砂礫だ。崩壊し易い地質であることは明らか。河床には草木が全くない。

09:00-10:00

小渋ダム

中川村(上伊那郡)

「小渋ダム」を   >

小渋ダム。高さ105メートルのアーチ式コンクリートダム。1961(昭和36)年6月の集中豪雨による災害、通称「三六災害」で大きな被害が出た天竜川流域の洪水の原因が小渋川から放出される膨大な砂礫の堆積だった。このため、洪水調節、治水のほか下伊那郡の農地へのかんがいと水力発電を目的とし国土交通省が建設したもの。災害直後に建設が開始され、1969年(昭和44年)に完成。

09:00-10:00

小渋ダムとダム湖の右岸のトンネルを抜けて大鹿村に入った所に大きな案内看板があった。大鹿村は「鹿塩村」と「大河原村」が合併して双方の頭文字をとった。地図の左手が鹿塩、右手が大河原となる。鹿塩川と小渋川の合流点に役場を置いた。尚、この看板がある場所が「桶谷(おけや)」であるが、鎌倉幕府の生き残りである北条時行が隠れ住んだことから「王家の谷→王家谷→桶谷」と呼ばれるようになったとのこと。

10:00-11:00

道の駅 歌舞伎の里大鹿

大鹿村役場を過ぎて直ぐ右側に「道の駅 歌舞伎の里大鹿」がある。南側から来た道の方向を見ている。建物左手に小渋川があり奥の谷間に流れて行く。右手から鹿塩川が合流する。

10:00-11:00

大鹿村観光案内所

大鹿村(下伊那郡)

「大鹿村観光案内所」を   >

国の重要無形民俗文化財に指定された「大鹿歌舞伎」は年2回、春5月3日は大河原の大磧神社で、秋10月第3日曜日に鹿塩の市場神社で行われる。

10:00-11:00

大西公園

道の駅の西側を流れる小渋川。橋を渡った所が「三六災害」で大西山が崩壊した崩落地を造成した大西公園。橋の向こうにリニア中央新幹線の小渋川橋梁ができる予定である。左側の南アルプスを出て、直ぐ右側の伊那山地のトンネルに入る予定。小渋川の河床には大きな石もなく、草木もなく砂礫だけ。

10:00-11:00

大西山崩壊跡

大西山の崩落地は60年以上たったが傷跡は生々しい。320万立法メートルの土砂が2つの集落を飲み込み、死者行方不明者42名、重軽傷者642名、失われた家屋は39戸などの大災害となった。大きくえぐれて侵食されている部分は中央構造線の断層深部で組成されたマイロナイトだった部分のよう。

10:00-11:00

赤石岳(長野県大鹿村)

大鹿村(下伊那郡)

「赤石岳(長野県大鹿村)」を   >

道の駅から中央構造線博物館に行く途中の新小渋橋から赤石岳がよく見える。新小渋橋の標高が728mで赤石岳が3120mであり2400mの標高差が眼前に迫る。直線にして15q足らず。赤石岳の左方に荒川岳(前岳・中岳)の大崩壊地がある。小渋川の両岸の川や沢を遡ると大崩壊地が点在し災害の多発地帯である。このような危ない場所の大河原に後醍醐天皇の王子、宗良親王が約30年住み南朝の拠点となった。今でも「信濃宮」「御所平」がある。赤石岳、荒川岳は砂岩、泥岩、チャートなどの四万十帯であるが、小渋川はこれを浸食しながら、手前の秩父帯、三波川・みかぶ帯を浸食してほぼ直線的に流れてきている。

11:00-12:00

中央構造線博物館

大鹿村(下伊那郡)

「中央構造線博物館」を   >

大鹿村中央構造線博物館は、関東から九州へ日本列島を縦断する大断層「中央構造線」のほぼ真上に建っている。中央構造線と大鹿村の岩石標本などを展示。背後は大西山と崩壊地。

11:00-12:00

中央構造線博物館

大鹿村(下伊那郡)

「中央構造線博物館」を   >

中央構造線の南方を望む。左手が東で三波川・みかぶ帯が、右手の西側は領家帯となっている。中央構造線が谷を作っている。

11:00-12:00

庭の岩石園の石の配置。内帯(伊那山地)、外帯(赤石山脈)それぞれの地質の石が展示してある。伊那山地は火成岩だが赤石山脈は堆積岩。赤石の名前の由来は「チャート」から。

11:00-12:00

大鹿村の地質図。赤の伊那山地が領家帯、その右に断層深部で組成された鹿塩マイロナイト帯(灰色)。中央構造線の右側の南アルプス方向には三波川変成帯、秩父帯、四万十帯北帯が重層的に並ぶ。この鹿塩マイロナイト帯から四万十帯北帯まではこの大鹿村において、小渋川を軸にねじ曲がるように反転しているよう。

11:00-12:00

中央構造線の標識と北方を望む。ここから真っ直ぐ北方に断層が走り前方の山に鞍部がある。

11:00-12:00

中尾地区の断層鞍部。ジグザグな坂道がある右側の部分と左側の樹木に覆われて部分の中央を中央構造線が走る。中央構造線の右側が地滑り地帯であることがわかる。しかし、住宅や道路は地滑りした平坦地につくられる。災害と生活は表裏一体である。

11:00-12:00

断層鞍部の説明板。右側が地滑り地帯であり、手前の住宅地は地滑りの跡地に建てられ、山の道路も地滑りした跡に作られたものだろう。

11:00-12:00

大鹿村の地質模型と正面は中央構造線の北川露頭(天然記念物)のはぎとり標本。赤色の伊那山地は同じ岩石だが、右側の南アルプス側は幾種類もの堆積岩帯が重なっている。

11:00-12:00

中央構造線はどこにあるか。関東から九州まで延びる大断層。南アルプス(赤石山脈)と伊那山地の間の谷に沿っている。諏訪から遠州秋葉神社に通じる秋葉街道である。

11:00-12:00

中央構造線とは大陸のプレートの境ではなく、ユーラシアプレート内にできた断層。

11:00-12:00

中央構造線とフォッサマグナは別物。フォッサマグナはプレートに沿った断層であるのに対し、中央構造線はユーラシアプレート内の断層。

11:00-12:00

領下帯は火成岩、三波川変成帯など外帯の岩石は堆積岩。地下でそれぞれ変成岩を作りながら隆起により隣り合わせとなった。

11:00-12:00

伊那谷と中央アルプスは領家変成帯である。リニアは糸魚川・静岡構造線と中央構造線の二つの大断層を横断させるもの。日本列島そのものが災害列島で安全な場所はなく、地震や津波、土砂崩落の多い外帯に人は住み発展してきた歴史がある。二つの大断層を横断する初めてのトンネル工事の困難さはこれまでの比ではないだろう。

11:00-12:00

伊那谷の地形の成り立ち。太平洋プレートの沈み込みやフィリピン海プレートに押され、南アルプス、伊那山地、中央アルプスが隆起し、川の浸食により深い谷が形成。

11:00-12:00

赤石山脈の急激な隆起。10年で4p隆起し2p浸食されるようで実質2pの隆起。南アルプスの間ノ岳(3189m)も何十万年後には富士山を越すよう。

12:00-13:00

道の駅 歌舞伎の里大鹿

道の駅へ戻って「おい菜」で昼食。大鹿カラマツを使用した木造の建物は温もりを感じる。広いスペースにテーブルと畳の小上がりもある。鹿肉のステーキや焼き肉もあるようだが、カツ丼とそばのセットで。

13:00-14:00

赤石岳(長野県大鹿村)

大鹿村(下伊那郡)

「赤石岳(長野県大鹿村)」を   >

昼食後、小渋川を赤石岳方面に遡る。小渋川の右岸の山道を上るが、意外と赤石岳を望む場所がなく、赤石荘を過ぎた日向休付近から赤石岳を撮る。宗良親王が住まわれた御所平はこの左手で土砂災害により通行止めと地図にあった。リニア新幹線はこの御所平をルートにしている。

13:00-14:00

赤石岳(長野県大鹿村)

大鹿村(下伊那郡)

「赤石岳(長野県大鹿村)」を   >

望遠での赤石岳。赤石の名前の由来は「チャート」である。放散虫の殻が海の底にたまってできた緻密な石が赤色の「チャート」である。太平洋の海底で組成されたチャートがプレートの沈み込みと隆起により3千mの高さに。

13:00-14:00

赤石荘付近から小渋川の対岸にある鳶ヶ巣の崩壊地を見る。三波川・みかぶ帯になるが、南洋の海底溶岩台地のマグマだまりでできたかんらん岩。かんらん岩が水を含んで変質した蛇紋岩は地滑りや崩壊を起こしやすい。この奥にトンネルを開けている。

13:00-14:00

信濃宮神社

大鹿村(下伊那郡)

「信濃宮神社」を   >

上蔵(わぞ)集落の「信濃宮」の案内板をたよりに、山奥に立派な神社。後醍醐天皇の王子宗良親王は30年あまり御所平に居住した。親王の終焉地も大河原とし宝篋印塔もあるが、いろいろな説がある。南北朝の第一の歌人とも称された宗良親王の悲運な生涯もこの山里に伝えられている。

13:00-14:00

側面から。5本の鰹木と千木は外削ぎ。妻入りの切妻の流造。僅かな村民がこれだけの神社を祀っていることに驚く。天然の要害であった大河原であったが、地元の豪族香坂高宗は大河原城、松平城、駿木城、堀田城を築き、親王を護ろうとし、南朝方の重要な拠点となった。大正4年、香坂高宗に「従四位」が贈られている。

13:00-14:00

「信濃宮神社」由緒。昭和15年の皇紀2600年を記念して神社の造営を企画したが、戦時中の財政難で中断、戦後に創建されたよう。宗良親王は「言はで思う 心の中の 苦しさは 身を埋れ木と 過ごすなりけり」(李花集)と詠んでいる。

13:00-14:00

信濃宮から見る上蔵(わぞ)集落。見通しが悪くはっきりわからないが20軒位が過去の地滑り跡地に点在している。石器・縄文・弥生・古墳遺跡のない大鹿であるが、古くからの住居や畑は地滑り跡である緩斜面にある。川の付近に住居ができたのは近世になってから。

1日目の旅ルート

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