Shotaさんの東京都〜静岡県の旅行記

東海道五十三次の宿場巡り(静岡・神奈川・東京)
- 1日目2022年1月10日(月)
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08:00-08:00
「白須賀 汐見阪図」 白須賀宿は海沿いにあったが、津波で壊滅し高台に移された。広重は元の宿場から新宿場に向かう途中にある、絶景で知られた汐見坂の景観を弧線と水平線で構成し描いている。海が窪地の上にぽっかりと顔を出したように見える。『保永堂版 東海道五拾三次』
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08:00-08:00
白須賀宿は東海道32番目の宿場。「問屋場跡」「沢潟(おもだか)屋」「酒小(さけこ)」などの表示を掲げてある家屋が旧街道沿いに見られた。 【本陣1カ所、脇本陣1カ所、旅籠27軒。名物・柏餅、そば切】
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09:00-09:00
新居宿に隣接していた今切(いまぎれ)関所。建物は関所廃止後も小学校校舎、旧新居町役場として利用され、現在に至っている。敷地に新居関所資料館が建っている。
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09:00-09:00
新居関所 高札場
新居関所の門前に復元された高札場。荒井宿は関所に隣接していた。 【本陣3カ所、旅籠26軒。名物・鰻の蒲焼、鰹の塩辛、浜名納豆】
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10:00-10:00
舞坂宿
「舞坂 今切真景」 かつて浜名湖と遠州灘はつながっておらず、室町期の地震によって境目の陸地が決壊した。中央にとがった山が描かれているこの風景は今切の実景とは異なる。広重はあえて以前の風景を「今切真景」として描いているようだ。『保永堂版 東海道五拾三次』
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10:00-10:00
舞坂宿は30番目の宿場。1707年(宝永4年)の地震と津波で舞坂宿と荒井宿を結ぶ航路が長くなった結果、東海道の通行者が激減する。浜松・新居・白須賀・二川・吉田の六宿の嘆願により、迂回路本坂通の通行が差し止められ、東海道の利用が回復したという。
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10:00-10:00
舞坂宿 脇本陣
舞坂宿脇本陣の建物が復元され、内部が開放されている。 【本陣2カ所、脇本陣1カ所、旅籠28軒。名物・鰻、蛤】
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10:00-10:00
浜松宿
「浜松 冬枯ノ図」 遠くに浜松城と城下の町並み、右手に「ざざんざの松」と呼ばれた浜松の名所を描いている。手前左に仕事仲間らしき四人の男、右手に通りすがりの旅人、少し離れて赤子を背負った女と無縁な人たちの寄り添う風景が、囲んでいる火を中心になごやかに描かれている。『保永堂版 東海道五拾三次』
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10:00-10:00
浜松宿杉浦本陣址
浜松杉浦宿址。浜松宿は江戸から29番目の宿場。江戸と京のほぼ中間に位置する。浜松城下だけに本陣が6ケ所、旅籠が94軒あったという。 【名物・鯉鮒料理、自然薯】
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10:00-10:00
浜松城は1570年(元亀元年)家康が中世の引馬城を取り込んだ形で築いた平山城である。残された石垣の上に、1958年(昭和33年)復興天守[2/3程度の大きさ]が建ち、郷土博物館になっている。『日本城郭大系9』
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11:00-11:00
「見付」は水(み)に接する土地であることを意味する。鎌倉期には国衛と守護所が置かれていた。 【本陣2カ所、脇本陣1カ所、旅籠56軒。名物・饅頭、すっぽん、うどん、そば切】
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11:00-11:00
見付宿脇本陣門
見付宿の脇本陣を飾った医薬門が移築・復元されている。屋根は桟瓦葺の切妻造で両先端に小型の鯱を配してある。
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11:00-11:00
見付学校は1873年(明治6年)開校。仮校舎で開校したが、1875年(明治8年)から1922年(大正11年)まで使用された「五階校舎」は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である。
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11:00-11:00
旧見付学校
見付学校は高等小学校、尋常高等小学校、国民学校といった変遷をたどった。「旧見付学校校舎」は隣接する磐田文庫と共に史跡に指定されている。
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15:00-16:00
さかもと治療院(碑文谷)
風邪が長引いて予約した日に伺えず、この日に診ていただけることになった。不思議な軽い触診で、左の肺に炎症があること、痰や鼻水で老廃物が排出されていることの説明をうけて納得。
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19:00-23:00
ビジネスホテルバン
ビジネスホテルバンは先日泊まった、築地場外市場のすぐ側にあるビジネスホテル。
- 2日目2022年1月11日(火)
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00:00-07:00
ビジネスホテルバン
ゆっくり休んで簡単な朝食をすませ、7時半に出発。
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08:00-08:00
「日本橋 朝之景」 五十五図からなるシリーズの冒頭、一日の始まりである早朝の風景、長い東海道の旅の振り出しという、さまざまな意味での「始まり」にあたる図である。広重はその緊張感を日本橋を正面からとらえることで表している。『保永堂版 東海道五拾三次』
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08:00-08:00
日本橋は1603年(慶長8年)に築橋。現在の橋は1911年(明治44年)に架け替えられたもの。江戸と京の間は里程124里8丁、487.8キロメートル。日本橋は日本の道路網の始点となっている。
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08:00-08:00
日本橋 道路元標
「日本国道路元標」が主要国道七路線(国道1号、4号、6号、14号、15号、17号、20号)の起点標で日本橋の中央に設置されている。(写真は橋の側にあるレプリカ)
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09:00-09:00
「品川 日之出」 前図「日本橋」で薄暗い時刻に江戸を出立した大名行列が、ちょうど日の出の時刻に品川宿にさしかかったところ。江戸期、品川は海に面した磯の香りがする宿場であった。『保永堂版 東海道五拾三次』
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09:00-09:00
品川宿は1601年(慶長6年)品川湊の近くに設置された東海道の第一宿。中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。 【本陣1カ所、脇本陣2カ所、旅籠93軒と目立って多い。名物・あなご料理、海苔、芝海老】
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09:00-09:00
聖蹟公園
品川宿本陣址は1872年(明治5年)、宿駅制度廃止後は警視庁品川病院となったが、1938年(昭和13年)聖蹟公園として整備された。
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10:00-10:00
六郷の渡し(川崎市)
「川崎 六郷渡舟」 この時代多摩川に橋は架かっておらず、渡し舟に乗る必要があった。広重は人物を絶妙に配置している。まず手前の渡し舟の乗客と船頭、次に対岸の人々、更に運賃を払う男へ、見る者の視線を次第に奥へと導いている。『保永堂版 東海道五拾三次』
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10:00-10:00
六郷の渡し(川崎市)
1600年(慶長5年)六郷川に六郷大橋が架けられたが、1688年(元禄元年)の大洪水で橋が流された。以後幕府は架橋をやめ、明治に至るまで舟渡しとなった。
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10:00-10:00
川崎宿は東海道成立時点では正式な宿場ではなかったが、品川宿・神奈川宿間が往復十里と長かったために、1623年(元和9年)設置された。 【本陣2カ所、旅籠72軒。名物・米饅頭、奈良茶飯、梅干】
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11:00-11:00
神奈川宿
「神奈川 台之景」 現代からは想像できないのどかで美しい風景である。一方右手路上には旅人を引き込もうとする茶店の女たち、親子連れの巡礼、厨子を負った六部と人間臭いドラマが描かれている。『保永堂版 東海道五拾三次』
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11:00-11:00
神奈川歴史の道(横浜市神奈川区)
横浜市神奈川区台町にある「神奈川宿歴史の道」パネル。江戸後期に幕府道中奉行が造った「東海道文間延絵図」を元に入口の長延寺からパネルのある上台橋までの詳細な案内が記されている。
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11:00-11:00
神奈川本陣址(横浜市神奈川区)
神奈川本陣址。現在とほぼ同じ位置に架かっていた滝の橋をはさんで東の神奈川町、西の青木町に本陣が置かれた。 【本陣2カ所、旅籠58軒。名物・亀の甲煎餅、台の茶屋料理】
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12:00-12:00
「保土ヶ谷 新町橋」 深編笠をかぶった虚無僧、そして駕籠の一行が橋を渡り、宿場入り口にさしかかるところを描いている。橋のたもとには実在した二八そば屋が旅人を待っている。『保永堂版 東海道五拾三次』
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12:00-12:00
保土ヶ谷宿本陣址(横浜市保土ヶ谷区)
保土ヶ谷宿は1601年(慶長6年)に設置。本陣は保土ヶ谷橋交差点付近にあった。 【本陣1カ所、脇本陣3カ所、旅籠67軒。名物・ぼたん餅、焼き餅】
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12:00-12:00
戸塚宿渡邊本陣址(横浜市戸塚区)
5番目の宿場戸塚宿は日本橋からちょうど一泊目の宿場にあたり、旅籠は小田原に次いで多かったとされる。 【本陣2カ所、脇本陣3カ所、旅籠75軒。】
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14:00-15:00
藤沢宿
「藤沢 遊行寺」広重は遠景山上に、時宗総本山の清浄光寺(遊行寺)の伽藍を描き、左手前に大きく鳥居を描くことで江の島参詣と大山石尊大権現への参拝者たちをも描いている。『保永堂版 東海道五拾三次』
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14:00-15:00
藤沢は下記清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄えており、1601年(慶長6年)宿場となった。宿場設置に先立って将軍家の別荘である藤沢御殿が築かれた。 【本陣一カ所、脇本陣一カ所、旅籠45軒。名物・ひしこなます、弁慶餅、江の島煮】
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14:00-15:00
藤沢宿 高札場
遊行寺門前にある、ふじさわ宿交流館前に高札場が復元されている。
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14:00-15:00
藤沢山無量光院清浄光寺は時宗総本山の寺院。通称遊行寺。1325年(正中2年)他阿呑海開山と伝わる。阿弥陀如来を本尊とする。
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14:00-15:00
遊行寺 中雀門
本堂に向かって左手にある中雀門は1859年(安政6年)建立。菊の紋と三葉葵の紋が刻まれている。
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14:00-15:00
遊行寺 本堂
1923年(大正12年)の関東大震災で本堂も全壊。1937年(昭和12年)に再興された。
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15:00-15:00
平塚宿址
平塚市民センター近くの道路脇に平塚宿脇本陣址の石碑と説明版が立っている。
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15:00-15:00
平塚宿脇本陣址
「平塚」という地名は鎌倉期頃の史料に見られる。室町期には大森氏の築いた平塚城もあった。 【本陣1カ所、脇本陣1カ所、旅籠54軒。名物・ヒシコの膾、鰹のあぶり】
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16:00-16:00
大磯宿
「大磯 虎ケ雨」 「虎ケ雨」とは陰暦5月28日に降る雨をいう。仇討ちで知られる曽我十郎がこの日に討死し、大磯の遊女であった愛人虎御前の涙が雨になって降るとされた。『保永堂版 東海道五拾三次』
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16:00-16:00
大磯宿址
島崎藤村の墓のある地福寺門前に大磯宿の本陣、南問屋場などがあった。 【本陣3カ所、旅籠66軒。名物・鮟鱇料理、花水団子、西行餅】
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16:00-17:00
小田原宿
「小田原 酒匂川」 舞台は小田原宿の手前、酒匂川の渡し場。徒行(かち)渡しといい、人足が旅人を輦台(れんだい)に乗せて担いだり、肩車して渡していた。背景には小田原城下と箱根の山々が鮮やかな色どりで描かれている。『保永堂版 東海道五拾三次』
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16:00-17:00
小田原宿脇本陣址
小田原宿は江戸を出て最初の城下町にあった9番目の宿場。昭和初期の網問屋を利用した「なりわい交流館」が建てられている。 【本陣4カ所、脇本陣4カ所、旅籠95軒。名物・ういろう、梅漬、提灯】
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16:00-17:00
小田原宿脇本陣 古清水旅館址
弥次喜多の話にも登場する、脇本陣であった古清水旅館は最後の空襲で焼けてしまった。再建して最近まで営業を続けていたが、現在高齢者のための集合住宅になったと通りがかりの人が話してくれた。
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16:00-17:00
小田原城は14世紀末頃、土肥氏によって築かれたと伝わるが定かではない。1495年(明応4年)伊勢新九郎長氏(北条早雲)が大森藤頼を破って築いたのが現在の小田原城であるとされている。『日本城郭大系6』 1960年(昭和35年)天守が再建され、資料館になっている。
東海道五十三次の宿場巡り(静岡・神奈川・東京)
1日目の旅ルート
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