宿番号:337486
歴史が変った瞬間――秀吉の毛利攻め。 唐獅子3
更新 : 2010/6/29 18:14
「唐獅子図屏風」をめぐる人々を紐解くと、
戦国時代の歴史絵巻が繰り広げられます。
その立役者が豊臣秀吉と
中国地方の覇者、毛利輝元です。
ときは1582年4月、
秀吉は信長の命令を受けて
岡山市にある毛利方の備中高松城を
攻めていました。
秀吉側は3万人。
対して高松城に立てこもるのは
城主清水宗治ら5000人。
しかし低湿地に建てられた沼城の高松城は、
鉄砲も届かず馬でも近づけず、
容易に攻め落とすことができません。
西からは4万人の毛利の援軍が近づいていました。
そこで秀吉は部下の進言を受けて
「水攻め」の策に出るのです。
莫大な費用をかけて堤防を築き、
川をせき止めて城を「孤島」にしてしまおうというもの。
12日間の突貫工事が終わった5月下旬、
備中は折しも梅雨に突入し、
城の周りはみるみるうちに水があふれて
200ヘクタールの湖となりました。
高松城は物資の補給ができない
「兵糧攻め」の状態に陥ったのです。
駆けつけた毛利の援軍も、
広大な湖を前に為す術がありません。
秀吉との和議を模索せざるを得ないのでした。
そのさ中の6月3日、
秀吉は明智光秀から毛利側に送られた
農民風の男――密使を捉えるのです。
その懐にあった書状から、
秀吉は「本能寺の変」で
信長が殺されたことを知ります。
事態は急転直下。
光秀の援軍が来ないばかりか、
秀吉は後ろ盾を失うという事態に
直面することになったのです。
(続く)
※ 写真は「唐獅子図屏風」と対になる
子獅子の屏風の一部です。
ブログ担当 ミソサザイ
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