宿番号:337486
本能寺―城主の自害―そして天王山。 唐獅子4
更新 : 2010/6/29 21:29
城を取り囲む湖を前に、
「もはやこれまで」と観念した毛利側。
備中・高松城主の清水宗治(むねはる)は、
自らと兄、数人の家臣らの首と引き換えに
籠城している兵士らの命を助けるよう、
秀吉に嘆願書を送りました。
ちょうどそのとき、
秀吉は前夜6月2日の「本能寺の変」で
信長が死んだことを知るのです。
秀吉は密使を斬った上で厳重な箝口令を敷き、
翌6月4日には領地割譲の条件を緩めて
毛利側との和議に応じました。
毛利と秀吉、7万の軍勢が見守る中、
清水宗治らは白装束に着替えて湖の上に小舟で漕ぎ出し、
秀吉側から送られた酒肴で別れの杯を交わしました。
そして「誓願寺」を舞った後、切腹したのです。
宗治の辞世の句は
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して」でした。
一方、秀吉は翌5日から撤収を開始し、
7日は兵庫県の姫路城、
9日には大阪府との境にある尼崎まで取って返すという
「中国大返し」をやってのけ、
13日には「天下分け目の天王山」と言われる
「山崎の戦い」に挑みました。
対して毛利側は4日の午後に「本能寺の変」の情報を入手。
欺かれたことを知った
毛利元就(もとなり)の次男・吉川(きっかわ)元春は
和議を破棄して秀吉を追撃しようとしますが、
三男の小早川隆景は和議の尊重を主張。
兄弟らは父の遺訓「三本の矢」
(一本の矢は折れても、
三本束ねれば折れなくなるというたとえ)
を思い出し、追撃を諦めます。
高松攻めは、
まさしく日本の歴史のターニングポイント。
このとき毛利が追撃していたら、
秀吉の天下は訪れなかったかもしれないのです。
(続く)
ブログ担当 ミソサザイ
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