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内応と裏切りの関ケ原。 唐獅子8
更新 : 2010/7/7 19:59
では、「唐獅子図屏風」を受け取った毛利氏は
その後どうなったでしょう。
秀吉は1595年に甥の秀次を自害させた3年後、
まだ5歳の嫡子秀頼を残して61歳で亡くなります。
その後家康が台頭してくるわけですが、
秀次の臣下たちは当然秀吉に
強い恨みを持っていますから、
家康の方に接近します。
一方、毛利家は足並みが揃いません。
毛利元就(もとなり)の嫡子の子である輝元は、
石田三成らによって西軍の大将をさせられますが、
元就の次男の子である吉川(きっかわ)広家と
三男の養子である小早川秀秋が、
東軍の徳川に内応していました。
その結果西軍は、
1600年の関ヶ原の戦いにおいて
東軍を取り囲む有利な布陣であったにもかかわらず、
吉川広家が3万3000の毛利軍らが出動できないよう
前方に陣取って道を塞いだことや、
1万5000の小早川軍が寝返ったことなどにより、
大敗を喫するのです。
西軍総大将の毛利の身内から出た裏切り。
関ケ原はまさに、「毛利によって負けた」と言っても
過言ではない戦いでした。
しかし吉川広家は実は「毛利家」のために
東軍に内応したのです。
広家は「毛利輝元は担ぎ上げられているだけだ」
と主張して、
徳川側から「領地安堵」の約束を取り付けていました。
ところが家康は、
輝元が西軍の総大将として
積極的に大名たちに働きかけたことを知ると、
毛利家の改易(取り潰し)を決定。
一方、広家には関ヶ原での手柄として、
現在の山口県にあたる
周防(すおう)と長門(ながと)を
加増すると伝えました。
広家はこの決定に驚き、
家康に毛利家の存続を懇願。
この2国を輝元に与えるよう
必死になって訴えました。
広家の毛利本家への忠節に
心を動かされた家康は、
改易を取り消して輝元に
周防と長門を与えましたが、
結果的に毛利家は120万石から36万石へと
大幅に減封されることになったのです。
(続く)
ブログ担当 ミソサザイ
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