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信州湯田中温泉 よろづやのお知らせ・ブログ
恐るべし、毛利元就の未来予知。 唐獅子9
更新 : 2010/7/7 18:47
関ケ原での動きを見ますと、
吉川・小早川の2氏が始めから
「徳川には敵わない」などと思わず
毛利本家と足並みを揃えていたら、
もしかしたら西軍が勝って
徳川幕府は誕生しなかったかもしれないと
考えてしまいます。
だとすると、いよいよ毛利元就(もとなり)の
遺訓が思い起こされる。
一本の矢なら折れても、
三本束ねれば折ることができないという
「三本の矢」の教えと、
子供たちへの次の言葉です。
「我が毛利家は、版図(はんと)の保全のみを願い、
天下を望むなかれ」
ひょっとすると元就は
漠然とではあっても「未来を予知する」力があり、
関ケ原の戦いと「その後」の毛利家を「見て」
このようなことを言ったのかもしれないと思うほど、
適切な忠告でした。
宿曜占星術に通じていた武田信玄もそうですね。
彼は「自分の死後10年間は戦をするな」と
遺言しましたが、
嫡子・勝頼はその言い付けに従わず、
信玄の死後9年目の1582年、
織田・徳川連合軍によって滅ぼされてしまいました。
一方毛利は、減封されたとは言え
藩主として生き残ったところに運の強さがある。
石田三成ら西軍の他の武将たちは
捕らえられた後に引き回し、斬首、
さらし首という重い刑を受けました。
また「唐獅子図屏風」を手放した豊臣家は
関ケ原の後も依然として強い影響力を持ち続けますが、
1614年の「大阪冬の陣」と翌年の「夏の陣」で
徳川に滅ぼされてしまいました。
大阪城はこのとき、
永徳らが手掛けた数多(あまた)の障壁画とともに
炎上しています。
江戸時代に入っても毛利家は
「徳川憎し」の思いを持ち続け、
毎年新年には家臣が
「今年は倒幕の機は如何に?」と尋ね、
それに藩主が「時期尚早」と答える習慣が
あったといいます。
その藩主の後ろには、
「唐獅子図屏風」が飾られていた――
よろづやにはそのように伝わっています。
毛利家にとって江戸の260年間は、
まさに「雌伏の時」だったのです。
(続く)
※ 写真は中野市の谷厳寺です。
ブログ担当 ミソサザイ
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