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信州湯田中温泉 よろづやのお知らせ・ブログ
霊獣が持つ、審判の力。 唐獅子11
更新 : 2010/7/9 19:21
狩野永徳の夫婦(めおと)獅子の屏風を模写したのは
永徳から六代後の狩野栄川、
一方、常信の子獅子を模写したのは
栄川の子の養川でした。
栄川は、京都御所が再建された1790年に
60歳で亡くなっていますし、
養川はその18年後に55歳で亡くなっていますから、
「唐獅子図屏風」が1800年前後に
模写されたのは間違いありません。
そしてその半世紀後にはペリーが来航。
日本は幕末に突入してゆきます。
その際の長州藩士の働きは、
今更書く必要もないでしょう。
明治に入って獅子たちは皇室に献上され、
公爵となった毛利家にはその模写が残りました。
その後、日本はアジア全域に版図を広げてゆきますが、
「王道」から「覇道」への転換が
獅子たちの不興を買ったのか、
日本は敗戦によって、
どん底に突き落とされてしまいました。
昭和天皇崩御の後、
1989年(平成元年)6月に
天皇家の私有品であった「唐獅子図屏風」は
国に寄贈されました。
現在は皇居の中の
「三の丸尚蔵館」で展示されています。
このころ日本はバブル景気で
向かうところ敵なしの経済大国でしたが、
翌年にはバブルが崩壊。
長い不況の時を迎えることになるのです。
「唐獅子図屏風」が辿った道のりを追うと、
そこには「覇者」の栄枯盛衰が見え隠れします。
この「王権の象徴」を手にした者は必ず、
大きな力を持つ。
しかしその力の使い方を誤ると、
「おごれる人も久しからず」の
「盛者必衰の理(ことわり)」が表れるのです。
では永徳は、この絵に何を込めたのでしょう。
彼は霊獣・唐獅子に
「真の王」に対する
「戴冠の力」を授けたのではないでしょうか。
唐獅子が国のものとなっている今、
そのことを今一度、
よく考えてみる必要があるのではないかと思います。
ちなみに戦後GHQは貴族に高い相続税を掛けたため、
毛利家では様々なお宝を手放さざるを得ませんでした。
その御縁で、唐獅子たちががよろづやに来たのです。
ここにある屏風は
永徳の真筆ではありませんが、
寸分違わず描き写されたものではあります。
ですからこの絵を前にすると、
永徳が産み落とした獅子の「霊性」、
その峻厳なる「審判の力」に
そら恐ろしさを覚えることすらあるのです。
ブログ担当 ミソサザイ
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