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庭園の宿 石亭のお知らせ・ブログ
歴史の記録
更新 : 2009/6/24 23:07
歴史は教科書では教えられないことだらけである。教科書で教えていることはじつは間違っているのではと思うくらい。
国立のアニメミュージアムの話が有ったが、そんなものより日本のもっと本流の文化のために予算は使うべきだろう。
たとえば正倉院である。古代アジアの文化を資料で残す唯一無二のもので、かつて日本の誇りだった。世界中の研究者も注目し、日本はすごいわーと思っていたものだ。今は正倉院と知ってもピンとも来ない小中学生が多いかもしれない。そもそもどういう宝物か誰も知らない。教えないしアピールする施設が何もないから。
正倉院は明治以降皇室に属しているが東大寺のものである。今われわれのイメージする正倉院御物とは大仏殿を建立した聖武天皇の崩御に際し、そのゆかりのものを光明皇后が収めたものだ。実際には藤原仲麻呂がプロデュースしたことで、当時の宝物のすべてを仲麻呂が管理し独占することで政治的な優位を保とうとしたと言われる。そのとき収めたのは千点だが今は六分の一しか残っていない。正倉院といえば厳重な勅封と管理のイメージがあるが、物の出入りは頻繁にあった。勅封じたい始まったのは平安時代で、制度化されたのはさらにのち源頼朝によってだ。宝物を守るための勅封ではなく正倉院の権威付けだから勅封は形式にすぎなかった。「開封」をアピールしたい権力者の開封の記録だけ残るのである。聖武天皇ゆかりのものは千点だが、その目録には一万点あり、九千点はのちの追納である。正倉院に収めることも権威の証になったからだ。
教科書に写真がよく載る有名な香木も鎌倉時代に収めたもので、ただしもともと東大寺の所有だった。足利三代将軍と信長と家康の切り取った跡が残るのはお香をたのしむためではなく、その香木が当時から正倉院の権威の象徴のようになっていて切り取ることで権威を誇示できたからである。切り取ったものはさらに細分化しほかの者に下賜した。秀吉の記録がないのは記録に残さず持ち出したからだろう。
記録というものは世間にアピールしたい時にだけ残されるものなのである。同じように江戸時代の日本人と外国人の接触も記録に残らない。
当時アメリカには日本研究の団体がたくさんあって日のんの膨大な情報と物が集められていた。黒船で日本に来る前のペリーさんもそんな団体の一員で日本通だった。アメリカにどうやって日本の・・・続きは石亭HPへ