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全ては1人の娘の手から始まった もみじ饅頭誕生物語
更新 : 2018/10/8 17:39
皆様、いつもご拝読ありがとうございます
まだまだ暑い日が続きますが、宮島ではだいぶ朝晩の暑さは和らいできて、少しずつではありますが秋が近づいている事を実感できます。
秋の宮島の風物詩と言えば、やはり美しく彩られた赤い紅葉。
紅葉といえば、もみじ饅頭。
と、言うことで、今回はもみじ饅頭誕生の秘話をご紹介します。
もみじ饅頭は宮島のみならず、今や広島のお土産といえば真っ先に思い付くほどにメジャーなお土産となりました。表参道商店街を歩けば、どこもかしこも、もみじ饅頭だらけ。
そのルーツは、当時宮島・紅葉谷で和菓子屋「高津堂」を営んでいた、高津常助の考案とされています。
当時取引のあった紅葉谷にある旅館「岩惣」の女将から「紅葉谷に相応し菓子を作ってほしい」との依頼を受け、試行錯誤の末に「7つの切れ込みのある葉に短い葉柄があり、二頭の鹿を描いた」凝ったデザインの「紅葉形焼饅頭」を完成させました。明治39年(1906年)の事です。
証言によると、当時から「もみじ饅頭」という名が広まっていて、大正になると複数の業者も製造に携わるようになり、数も増えてきました。時代が進むにつれて改良もされ、現在のもみじ饅頭の形になりました。
その後、漫才コンビがネタとしてもみじ饅頭を使ったことで、知名度は一躍全国レベルとなり、広島を代表する和菓子として認知されるに至りました。
ところで、もみじ饅頭誕生には、初代内閣総理大臣の伊藤博文が関わっているという話があります。
山口県出身の伊藤博文は、昔から宮島の愛好家で、時間を見つけては来島していました。
ある時、岩惣の茶屋で休憩していた折、給仕した娘の手を見て「なんと可愛らしい、もみじのような手であろう。焼いて食うたらさぞ美味しかろう」と口説いていたのを岩惣の女将が聞き、もみじ饅頭発案のヒントになったというお話です。
時の権力者が何て事を、、、今の世ならバッシング物ですが、伊藤博文は当時から大の女好きとして知られており、その事実を踏まえた上で広まった秘話と言えます。
今やもみじ饅頭は、元祖こし餡にとどまらずあらゆる餡のバリエーションが出来、種類も生もみじ、揚げもみじと多岐に渡ります。
宮島とは切っても切れない縁で結ばれたもみじ饅頭ですが、全ては1人の娘の手から始まったのです。
もみじ饅頭の元祖、高津堂の「もみぢ饅頭」(もみじではありません)です。
右が「元祖つぶ餡」左が「栗餡(季節限定)」です。
なお、お店は宮島島内ではなく、対岸の宮島口にありますが、駅や港からは離れています。
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