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広島が生んだ戦国の智将 毛利元就と宮島
更新 : 2019/7/16 11:42
毛利元就
歴史に詳しくない方でも、名前だけは聞いたことあると思います。
宮島にゆかりの人物として、弘法大師空海、平清盛、豊臣秀吉、誓真、伊藤博文、他にも数多くの著名人や文化人が宮島に関わっています。
その中でも、地元広島の戦国大名・毛利元就も、平清盛などに劣らず、宮島に力を入れていたんです。今日は毛利元就と宮島のエピソードから、その人物像に迫ってみたいと思います。
毛利元就は1497年に、現在の広島県安芸高田市で誕生します。
当時の毛利家は大名以下の国人と呼ばれる小さな領主でしたが、元就1代70年で、中国・四国・北九州にまで勢力を張る大大名となりました。
元就は戦国時代でトップクラスの智謀の持ち主で、策略や調略で戦う前に相手を崩し、戦闘では弱点を巧みに突いて、大人数の敵を倒してきました。
大志もあり、少年時代に厳島神社で「天下の主になりたい」と祈念しました。その訳を聞かれると、「天下の主を志して、やっと国(今の県)の領主になれるのだ。最初から国で満足していたら、何にもなれない」と答えたとか。
時が流れ、広島県をほぼ掌握した毛利家は、お隣山口県の大大名・陶晴賢(正しくは大内家ですが、ここでは陶軍で統一)と対峙します。ですが、毛利軍2,000に対し陶軍は20,000!
倍の敵に勝つために元就が戦場に選んだのが、厳島神社のある宮島(厳島)でした。元就は最大限の智略を用いて、宮島島内に陶軍を誘う事に成功します。
「厳島の戦い」として知られる一戦は、激しい暴風雨の夜に毛利軍が海を渡って宮島に上陸するというありえない行動で完全に陶軍の意表を突き、翌朝の奇襲で一気に陶軍20,000を全滅させます。
ですが、元就が厳島神社の延焼を恐れて消火活動を優先した為、追撃戦は3日も続きます。
戦後、元就は血で汚れた宮島の土を全て島外に運び出し、神社の社殿や回廊を全て塩水で洗い清めました。また7日間死者の冥福を祈るとともに、後年大規模な社殿の修復も行い、宮島の復興に大きく寄与しました。
策謀家のイメージが強い元就ですが、数多く残る妻や息子達への手紙や、百万一心(人々が心を合わせて目的を達成する)の言葉の通り、信仰心が篤く、家族や仲間を大切にする方です。
乾坤一擲、厳島の戦いで勝って大大名への道を開いた毛利元就。時に59歳。
頑張ってたら、いつか追い風が吹くかも♪
広島・宮島ゆかりの英雄、毛利元就でした!
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