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11月21日、今日は【吉田松陰、忌日(1859)】
更新 : 2011/11/24 20:55
今日は【吉田松陰、忌日(1859(安政6)年)】です。
吉田松陰(よしだしょういん)とは、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家、である。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。
1830(文政13)年8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。1834(天保5)年6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、1835(天保6)年に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。江戸では佐久間象山に師事する。
1852(嘉永5)年、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するため脱藩。
1853(嘉永6)年、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷の金子重之輔と長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするが、失敗。
1854(安政元)年にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。松陰は奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。老中首座の阿部正弘より助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。
1855(安政2)年に出獄を許される。1857(安政4)年に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。
1858(安政5)年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画するが、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、1859(安政6)年10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。
獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。