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  • 12月1日、今日は【小早川秀秋、忌日(1602)】

    更新 : 2011/12/7 1:11

    今日は【小早川秀秋、忌日(1602(慶長7)年)】です。

    小早川秀秋(こばやかわひであき)とは、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。関ヶ原の戦い以後、秀詮(ひであき)と改名するが、秀秋と表記されることが多い。元服時の官位「左衛門督」の唐名「執金吾」から通称「金吾(きんご)」。

    秀秋は優柔不断かつ暗愚な武将として現代に至るまで評価されることが多い。こうした評価は秀秋の生前から存在しており、人柄が軽薄であり、兄達に著しく劣る人物であるという酷評すら存在する。また、家臣から度々の諫言を受けると逆上して手討ちにしたり、実際に秀秋の暗愚を見放して小早川家を去った重臣もいたという記録も残っている。

    一方で初陣である慶長の役の蔚山城の戦いでは武功を立て、岡山藩主となってからは家老の補佐があったとはいえ無難な統治手腕を発揮している。 民達からも慕われていたらしく、全くの無能ではなかったのではないかとも言われている。

    羽柴秀吉の正室おね(北政所/高台院)の甥(兄、木下家定の五男)であったが秀吉の養子となり、羽柴秀俊と名乗ったがのち小早川隆景の養子となり小早川家を継ぐ。

    朝鮮の役では元帥として参加しながら槍をもって奮戦し(この頃に名前を秀俊から秀秋に改名する。)、関ヶ原の戦いにおいては序盤戦というべき伏見城の戦いでは西軍の一員として戦功を上げた。

    が、決戦の場である関が原の戦いでは豊臣家に連なる者でありながら西軍から東軍へと寝返り大谷吉継の軍勢に攻め込むが、吉継は元より裏切りを予測しており兵数で勝るはずの小早川軍は迎撃をうけて遁走してしまうも、他の西軍側武将らの裏切りの連鎖が続き大谷軍は崩壊、それが契機となり西軍壊滅し、東軍が勝利を収める結果となった。

    その後、関が原の戦いの戦後論功行賞で岡山藩55万石の藩主となったが2年後に急死(大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説あり)した為、(関が原以前の領地では農民保護策など善政を執っていた模様でもあるが)裏切り者の悪名だけが残る結果となってしまった。

    美形であったといわれる片倉小十郎重長(伊達政宗に仕えた片倉小十郎景綱の子)を追い回していたとの話が残る。

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