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12月12日、今日は【西晋が滅亡(316)】
更新 : 2011/12/24 1:57
今日は【西晋が滅亡(316(建興4)年)】です。
西晋(せいしん)とは、司馬炎によって建てられた中国の統一王朝(265年-316年)。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。
後漢末期に曹操に仕えていた司馬懿は、曹操の死後に曹丕・曹叡の信任により、魏の中心人物として権力を拡大し、呉軍を撃退し、諸葛亮の北伐を耐えしのぎ、公孫淵を滅ぼすなどの軍功により、魏の中での存在感は他を圧するものとなった。司馬懿は息子の司馬師・司馬昭の助けを借りてクーデターを起こし、対抗勢力である曹爽一派を駆逐し、魏の権力を完全に掌握した。
251(嘉平3)年に司馬懿は死に、その権力は司馬師が引き継ぐ。司馬師も255年に死に、司馬昭が権力を引き継いだ。257(甘露2)年には司馬氏の権力掌握を打破すると称して諸葛誕の反乱が起きるが、司馬昭はこれを鎮圧して晋公の地位に勧められ、263(景元3)年に蜀(蜀漢)へケ艾・鍾会らを派遣してこれを滅ぼし(蜀漢の滅亡)、晋王となった。
265(咸熙2)年に司馬昭が死に、その子の司馬炎が後を継ぐ。同年、司馬炎は魏の元帝より禅譲を受け王朝を立てた。王朝を立てたのは司馬炎だが、晋の実質的な創立者は司馬炎の祖父の司馬懿である。
280(太康元)年、司馬炎は賈充・杜預・王濬・王渾らを派遣して、残る呉を滅ぼして晋は中国を統一した。
魏自体、曹操・曹丕によって国家の基盤や制度が確立しており、三国では最も高い国力と軍事力を持っていた。このため、晋は豊富な国力と軍事力を持った魏から禅譲を受けると、これに乗る形となった司馬炎は呉を滅ぼしたが、統一後は政治を顧みず、後宮に1万人という美女を集めて女色にふけった。
司馬炎は290(太熙元)年に死去し、皇太子の司馬衷(恵帝)が後を継ぐが、300(永康元)年に趙王司馬倫が八王の乱を起こし首都・洛陽を制圧、301(永康2)年に恵帝を廃して自ら即位した。
八王の乱は306(永興3)年に終結して、その年に司馬越により懐帝が擁立される。311(永嘉5)年に劉聡により永嘉の乱が起こり、洛陽が陥落、懐帝は捕らえられ、313(永嘉7)年に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて長安にいた愍帝は即位して漢(前趙)に抵抗するが、316(建興4)年、長安が陥落して西晋は滅亡。
皇族のうちただ一人逃げ延びた琅邪王・司馬睿(元帝)は江南に逃れ、愍帝が殺されたことを受けて即位して建康に都して東晋をたてた。