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SHIRAHAMA KEY TERRACE HOTEL SEAMORE ホテルシーモアのお知らせ・ブログ
2月3日、今日は【雪池忌】
更新 : 2011/2/4 3:03
今日は【雪池忌】です。
由来は、福澤諭吉の1901(明治34)年の忌日。墓のある港区元麻布の善福寺で、慶應義塾の関係者による法要が毎年行われている。
福澤諭吉(ふくざわゆきち)とは、明治時代の啓蒙思想家。慶応義塾の創設者。豊前中津藩(大分県)の下級武士の家に生まれる。19歳で長崎に出て蘭学を学び、翌年、大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んで、のち塾長となる。1858(安政5)年、藩命で江戸に蘭学塾を開くが、これがのちの慶応義塾となる。翌年、横浜で英語が国際語であることを知り、英学に転じる。幕府使節に随行し、三度、欧米を視察する。『西洋事情』、『学問のすゝめ』、『文明論之概略』などのベストセラーを世に出して、「独立自尊」の精神や「実学」の重要性を鼓吹する。明治新政府のたびかさなる出仕要請を辞退し、生涯官職に就かなかった。1872(明治5)年、明六社に参加。自由民権運動の高揚に対しては、天賦人権論を否定して、国権優先の「権道」を説いた。1882(明治15)年、「不偏不党」を旗印にかかげる日刊紙『時事新報』を創刊し、「官民調和」のもとに強力な国家をうち立て、欧米列強からの日本の独立を図り、1885(明治18)年には、「亜細亜の悪友を謝絶」して西洋列強に伍せんとする「脱亜論」を唱えた。東京で66歳で死去。
福沢は西洋の二つの原理、すなわち「有形において数理学と、無形において独立心」を日本に取り入れようとした。彼の代表的著作の一つである『学問のすすめ』も、数理学と独立心の意義を一般民衆向けに説いたものであった。数理学とは、今日の自然科学・社会科学・人文科学の一部をふくむ「実学」のことである。実学によって一身独立し、「一身独立して一国独立」することを説いた。『文明論之概略』においては、文明人とは公智・公徳・私智・私徳を調和的に発展させた人間にほかならず、公智・私智は学校教育において養成し、私徳は家において養成すべきことを説いた。そして各人が実学を学ぶ機会を平等にあたえられ、自由競争の結果、社会階層がたえず再分布され得る、一種の自由主義的能力主義の社会を理想とした。
そのような福沢の思想にも、1882(明治15)年以降、ある種の変化があらわれる。第一歩を実学を学ぶこととし、知育を中心に考えていたが、国家の統一と独立に情が果たす役割に注目し、公徳教育における報国心の重要性を説いて、帝室を日本国民の精神的中心に据えるに至った。