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2月15日、今日は【松平容保、誕生日(1836)】
更新 : 2011/2/15 18:42
今日は【松平容保、誕生日(1836(天保6)年)】です。
松平容保(まつだいらかたもり)とは、江戸時代末期の大名・陸奥国会津藩9代目藩主であり、また最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主徳川治保の子孫である。京都守護職。美濃国高須藩主・松平義建の六男で母は側室古森氏。高須四兄弟の1人。現在、徳川宗家は直系、徳川慶喜家、尾張徳川家は傍系で、血統上は容保と同系である(四男恒雄の子孫)。
1836(天保6)年2月15日に江戸の四谷にあった高須藩邸で生まれる。1846(弘化3)年に8代藩主・容敬(高須松平家出身で実の叔父)の養子となり、1852(嘉永5)年に会津藩を継ぎ藩主となる。
1862(文久2)年9月24日に京都守護職に就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任反対の姿勢を取った。しかし政事総裁職・松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」との家訓を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意。最後までこの遺訓を守り佐幕派の中心的存在として戦い、江戸幕府と運命を共にした。
1867(慶応3)年に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い江戸幕府が消滅すると同時に京都守護職も廃止された。慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同様の対立が起こった。
容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行う。西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城の無血開城が行われると、新政府軍は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧すると北陸地方へ進軍する。容保は幕府派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い篭城し、降伏勧告に応じて佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。
その後は鳥取藩に預けられ東京に移されて蟄居するが、嫡男・容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられた。容保はそれからまもなく蟄居を許され、1880(明治13)年には日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し、1893(明治26)年12月5日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため死亡する。享年59。
死の前日には明治天皇から牛乳を賜った。なお、容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際、宸翰と御製を賜ったのだが、彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。