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  • 2月16日、今日は【藤堂高虎、誕生日(1556)】

    更新 : 2011/2/17 0:03

    今日は【藤堂高虎、誕生日(1556(弘治2)年)】です。

    藤堂高虎(とうどうたかとら)とは、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。

    何度も主君を変えた戦国武将として知られる。また築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

    1556(弘治2)年の今日、近江犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。幼名を与吉と名乗った。

    はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、1570(元亀元)年の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、長政から感状を受ける。1573(天正元)年に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。その後、信長の甥・織田信澄の家臣として仕え、1576(天正4)年に羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えた。

    1585(天正13)年の紀州征伐に従軍し、このとき秀吉の命令で雑賀党の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。

    1591(天正19)年に秀長が死去すると、養子の豊臣秀保に仕えたが、1595(文禄4)年に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、伊予板島(現・宇和島市)7万石の大名となる。

    1598(慶長3)年8月の秀吉の死去直前から、徳川家康に接近した。
    1600(慶長5)年、家康による会津征伐に従軍し、9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と死闘を演じ、脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。

    その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、1608(慶長13)年に伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、伊勢津藩主となる。

    1614(慶長19)年からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う。戦後、その功績により32万石に加増された。

    家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は秀忠に仕えた。1630(寛永7)年に死去。享年75。

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