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2月23日、今日は【徳川綱吉、誕生日(1646)】
更新 : 2011/2/23 22:13
2月23日、今日は【徳川綱吉、誕生日(1646(正保3)年)】です。
徳川綱吉(とくがわつなよし)とは、江戸幕府の第5代将軍である。3代将軍・家光の4男、幼名は徳松。母は桂昌院。正室は鷹司教平の娘信子。側室に瑞春院、寿光院、清心院。子は、徳川徳松、鶴姫。
綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、1691(元禄4)年と1692(元禄5)年に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている。
綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。
綱吉の治世の評価が低いことについては、不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。具体的には、1698(元禄11)年の勅額大火(数寄屋橋門外より出火し上野を経て千住まで300町余を焼失、死者3,000人以上)や1707(宝永4)年の富士山噴火などである。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っていた。
また、『忠臣蔵』(元禄赤穂事件)では大抵の場合、高家吉良義央が浅野長矩をいじめる姿が描かれる。その結果、浅野にのみ切腹を命じて吉良の罪をとわなかった綱吉には「いじめっ子」に加担したかのような否定的イメージが付きまとってしまう。
そして綱吉のもう一つの不運は『水戸黄門』(徳川光圀)の存在である。光圀には生類憐みの令に抗議して犬の毛皮を送ったという逸話を中心に綱吉に直言したという記録がいくつかあるため、水戸黄門の物語中では悪役を割り当てられてしまっている。また、光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が自ら易経を講じるなど、類似した方向性を持っていたことから、水戸黄門ファンの中には、黄門を持ち上げるためにことさらに綱吉をけなすという風潮もある。