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2月28日、今日は【劉邦が皇帝に即位(紀元前202年)】
更新 : 2011/3/1 0:25
今日は【劉邦が皇帝に即位(紀元前202年)】です。
劉邦(りゅうほう)とは、西漢(紀元前206年―220年)の初代皇帝であり、中国史上の出身の低級卑賎の皇帝2人の中の1人でもある。劉邦は農家出身で、沛県の亭長であったが、反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となる。その後に東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。
中国の王朝の中でも特に重要とされる漢王朝の太祖であり、中国の歴史上でも皇帝のお手本とされる。また、部下の進言を取り入れることが多く、そのため自分の才能を活かしたいという多くの人材を得ることに成功している。
沛県郡豊県中陽里(現・江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしていたといわれる。
項梁の反乱に同調し、挙兵。項羽とともに秦の首都咸陽に進撃し、項羽より先んじて咸陽を制圧した。しかし、そのことで項羽の不満を買い、論功行賞では咸陽を含む関中から西の漢中・巴蜀へと左遷させられてしまう。漢中を得た劉邦は漢王となったが、当時の漢中は僻地であり、そこにいくことを拒み、劉邦の傘下から逃げ出すものも多かったという。
漢中に封ぜられ、中原への出口を三秦と過酷な山道に塞がれてしまった劉邦であるが、韓信を得たことによって項羽と再び戦う力を得、三秦を破り中原に出ることになる。
楚漢戦争では項羽の圧倒的な戦力の前に何度も敗北するものの、最終的には人々の心をつかむことに成功した劉邦が垓下に項羽を追い詰め、四面楚歌という精神攻撃で最終的な勝利を手にすることになる。
項羽を下した劉邦は諸侯に認められ、皇帝に就任することになる。ここに漢王朝が成立し、以降一度は新によって断絶するもののその後復活し、400年にわたる統一王朝の太祖となるのである。
皇帝就任後の劉邦は、各地で起こる反乱や、時には匈奴への親征も行った。しかし、皇帝に就任した劉邦は自分の才能が家臣たちに劣ることを知っていたため、いつか家臣たちが反乱を起こし自分に取って代わるのではないかという独裁者がよく陥る疑心暗鬼にとらわれてしまい、韓信などの家臣を誅することもあった。