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3月16日、今日は【池田輝政、忌日(1613)】
更新 : 2011/3/17 10:04
今日は【池田輝政、忌日(1613(慶長18)年)】です。
池田輝政(いけだてるまさ)とは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・大名。播磨国姫路藩主。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。岡山藩池田家宗家初代。
1564(永禄7)年12月29日、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲(現・愛知県清須市)に生まれた。のちに、信長に仕え、1580(天正8)年の花隈城攻略の際(花熊城の戦い)には、その軍功により信長から感状を授けられた。1582(天正10)年、本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると、父兄と共に羽柴秀吉に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝とともに棺を担いだ。
1583(天正11)年、父が美濃国大垣城主となると、輝政は池尻城主となった。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の池田元助が討死したため家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。その後も紀州征伐や富山の役、九州の役など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。
豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。1594(文禄3)年、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。
1598(慶長3)年8月、秀吉が没すると家康に接近。武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立し、1599(慶長4)年閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則や加藤清正らと共に石田三成襲撃事件を起こした。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、功を挙げた。
戦後、播磨姫路52万石に加増移封され、名を「輝政」と改めた。1601(慶長6)年から1609(慶長14)にかけて姫路城を大規模に改修する。1606(慶長11)年からは姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。
また、諸大名らと共に、1611(慶長16)年3月には、二条城における家康と秀頼との会見に同席した。池田一族で計92万石もの大領を有して、世に「西国将軍」、「姫路宰相百万石」等と称された。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治に至るまで池田家が繁栄する基盤を築いた。