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4月3日、今日は【武田勝頼、忌日(1582)】
更新 : 2011/4/4 0:01
今日は【武田勝頼、忌日(1582(天正10)年)】です。
武田勝頼(たけだかつより)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐の武将・戦国大名。甲斐武田家第20代当主。武田二十四将の一人。
当初は諏訪氏を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃・伊奈谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。父信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。
父は武田晴信(信玄)。母は信玄の側室である諏訪頼重の娘・諏訪御料人。正室は織田信長の養女・遠山夫人。継室に北条氏康の娘の北条夫人など。
信濃への領国拡大を行った信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である義信が信玄後期の義信事件により廃嫡されると継嗣となり、1573(元亀4)年には信玄の死により家督を相続する。
武田氏は信玄期に甲相駿三国同盟を背景に信濃の領国化をすすめ越後の上杉氏と対立していたが、信玄後期に方針を転換し三国同盟を破棄し今川領国へ侵攻(駿河侵攻)、さらに遠江・三河方面へ侵攻し西上作戦が行われ織田信長、徳川家康と対峙する。
勝頼期にもこの方針は継承されるが、1575(天正3)年、長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗したことを契機に領国の動揺を招く。その後越後との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟を結び領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持をはかるが、織田信長の本格的侵攻(武田征伐)により、1582(天正10)年の今日(旧暦3月11日)、嫡男信勝と正室北条夫人ともに天目山で自害(天目山の戦い)。享年37。これによって、450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡。勝頼父子の首級は京都に送られ一条大路の辻で梟首された。
後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。
江戸以降に再興する武田家は勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。
近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされていたが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。