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4月6日、今日は【板垣死すとも自由は死せず(1882)】
更新 : 2011/4/10 5:30
今日は【板垣退助自由党党首が遊説中に暴漢に襲われる。(岐阜事件)(1882()年)】です。
板垣退助(いたがきたいすけ)とは、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。
自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。没後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。
1837(天保8)年4月17日(新暦5月21日)、土佐藩士・乾正成(220石、馬廻格)の長男として、高知城下中島町(現・高知市中島町)生まれた。同藩士の後藤象二郎とは幼な馴染みである。坂本龍馬等の郷士よりも恵まれた扱いを受けていた。
1874(明治7)年に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと民選議院設立建白書を建議したが却下された。また、高知に立志社を設立した。1875(明治8)年に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
1881(明治14)年、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理となった。
全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた1882(明治15)年4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣が述べたことは、広く人々に、そして後世にまで伝わることになった。板垣は襲われた後、起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った。 やがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。つまり、「板垣死すとも、自由は死せず。」という言葉で、板垣本人が言った訳ではない。
同年11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。1884(明治17)年10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。
自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、1887(明治20)年5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、やむなく伯爵位を授爵した。その結果、衆議院議員となることはなく、また、伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席をもつことはなかった。