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5月26日、今日は【木戸孝允、忌日(1877)】
更新 : 2011/5/29 0:22
今日は【木戸孝允(桂小五郎)、忌日(1877(明治10)年)】です。
木戸孝允(きどたかよし)とは、幕末〜明治時代初期に活躍した日本の武士・政治家である。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。位階勲等は贈従一位勲一等。
長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。幕末期には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」、「維新の十傑」として並び称せられる。
吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、帰藩後は藩庁政務座の最高責任者として活躍する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。
維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼された。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)。
木戸は開明的であったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。
墓所は多くの勤皇志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。また、長州正義派政権時代に山口の居宅だった場所(山口市糸米(いとよね))に木戸神社がある。
晩年、木戸は現在の東京都文京区本駒込5丁目、豊島区駒込1丁目の別宅で親しい友人を招き過ごしたと言われる。当時の庭園が今も維持されている。JR山手線駒込駅から別邸までの間に木戸坂と命名された坂が残されている。