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5月29日、今日は【浅野長政、忌日(1611)】
更新 : 2011/5/30 16:24
今日は【浅野長政、忌日(1611(慶長16)年)】です。
浅野長政(あさのながまさ)とは、安土桃山時代から江戸時代の武将・大名。豊臣政権の五奉行筆頭。常陸国真壁藩主。通称は弥兵衛。初名は長吉(ながよし)。「長政」は晩年の改名で、「長吉」を名乗っていた時期が長い。従五位下・弾正少弼、従四位下・侍従。
尾張国春日井郡北野(現・愛知県北名古屋市)に安井重継の子として生まれる。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続した。同じく長勝の養女となっていたねね(後の北政所)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長政は秀吉にもっとも近い姻戚として、信長の命で秀吉の与力となる。
信長の死後は秀吉に仕え、1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げて、近江国に2万石を与えられる。1584(天正12)年には京都奉行職となり、後に豊臣政権下で五奉行の筆頭となる。長政は、その卓越した行政手腕を買われて秀吉に命ぜられて太閤検地を実施する。
1593(文禄2)年、朝鮮出兵でも功績があり、加藤光泰の死後に収公されていた甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入り、東国大名の取次役を命じられた。
五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行でありながら石田三成と犬猿の仲にあったとされる。1599(慶長4)年、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居した。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、関ヶ原本戦で活躍した。戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封された。長政は江戸幕府の成立後、家康に近侍した。
1606(慶長11)年、長政は幸長の所領とは別に、常陸国真壁5万石を隠居料として与えられた。1611(慶長16)年、真壁陣屋にて死去。享年65。墓所は、茨城県桜川市桜井の天目山伝正寺。また、和歌山県伊都郡高野町の高野山悉地院。
長男・幸長は、紀伊国和歌山藩の初代藩主となり、1613(慶長18)年、幸長の死後、長政の次男・長晟が家督を相続し、1619(元和5)年に安芸国広島藩に加増転封となる(広島浅野氏)。三男・長重は、常陸国真壁藩主となり、子の長直の代に播磨国赤穂藩に転封となる(赤穂浅野氏)。長重の曾孫・長矩が、元禄赤穂事件で有名な浅野内匠頭であり、事件後、赤穂藩は除封となる。