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5月30日、今日は【清河八郎、忌日(1863)】
更新 : 2011/5/31 1:36
今日は【清河八郎、忌日(1863(文久3)年)】です。
清河八郎(きよかわはちろう)とは、幕末(江戸時代)庄内藩の志士で、浪士組(新選組・新徴組の前身)を結成し、虎尾の会を率いた。出羽国庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士の斉藤豪寿の子。幼名は元司。諱は正明。本名は斉藤正明。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られている。贈正四位。
1843(天保14)年、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。1846(弘化3)年には後の天誅組総裁藤本鉄石と会い親交を深めた。1847(弘化4)年、江戸に出て古学派の東条一堂に師事。また北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得え、江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。その後、清河塾を開設。
1860(万延元)年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。その中には幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らがいる。
同年、清河を盟主として虎尾の会を結成。発起人は山岡鉄太郎ら15名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てたが、この密計が幕府の知るところとなり、幕府に追われる立場となった。
その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組が結成される(234名)。1863(文久3)年2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
1863(文久3)年4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現・麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた。享年34。首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し傳通院に葬ったが後に遺族に渡したという。墓所は東京文京区の伝通院にある。清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとした。