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6月3日、今日は【金ヶ崎崩れ(1570)】
更新 : 2011/6/3 22:52
今日は【金ヶ崎崩れ(1570(元亀元)年旧暦4月30日)】です。
金ヶ崎崩れ、金ヶ崎の戦い、または金ヶ崎の退き口ともいわれるこの戦いは、戦国時代の合戦のうちのひとつで、戦国史上で有名な撤退戦の一つである。
1570(元亀元)年旧暦4月20日(5月24日)、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍を率いて京を出陣。織田軍の武将のほか池田勝正・松永久秀といった近畿の武将、公家である飛鳥井雅敦・日野輝資も従軍している。結果から言えば越前遠征に向かったわけだが、信長から毛利元就に宛てた書状には「若狭国武藤に圧力をかける」という意味の文面が見られ、口実は若狭攻めであった。
旧暦4月25日(5月29日)、越前の朝倉義景領に侵攻した織田徳川連合軍が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江の浅井長政が突然裏切り、織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃という危機にみまわれた。
この時殿軍に自ら名乗りをあげたのが、木下秀吉(豊臣秀吉)であったと言われている。織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めた。
信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。京への到着は旧暦4月30日(6月3日)。供はわずか十人程度であったという。池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えた。
なお、朽木は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が朽木を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたと『朝倉記』にはある。
信長が無事逃げ延びたのは池田勝正の統率力と明智光秀や木下秀吉らの命がけの戦いのおかげであったが、朝倉本隊・朝倉義景軍の追撃の動きが鈍かった事も大きな要因になったと言われている。これに対し、朝倉軍の追撃はごく一般的な速さであったが、それ以上に信長軍の撤退が迅速であったために十分な追撃が行えなかったとの説や、織田軍の統率がとれていてつけいる隙がなかったという説などがあったとする説などある。
また金ヶ崎の戦いの本質は、将軍足利義昭が企画したもので、朝倉氏が拉致軟禁していた武田元明の救出が目的であったとの説もある。それによると元明が救出された時点で金ヶ崎の戦いは目的が達成され、織田軍は撤退を始めたとする。