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  • 6月3日、今日は【三好政康、忌日(1615)】

    更新 : 2011/6/3 10:36

    今日は【三好政康、忌日(1615(慶長20)年)】です。

    三好政康(みよしまさやす)とは、「三好三人衆」出身の戦国武将であり、豊臣家所属になって以降は88歳の高齢で大坂に散った忠勇ぶりから真田十勇士の三好清海のモデルになった、鬼十河に次ぐ武勇で知られる三好家の隠れた猛将。入道しての名は「三好清海(みよしじょうかい)」。官位は下野守。父は三好之長の子の三好頼澄とされる。

    1549(天文18)年に、父の三好政長は細川晴元と共に政敵となった一族の三好長慶と江口の戦いで戦ったが敗れ戦死した。政長は細川晴元の家臣として三好長慶と戦ったこともあるが、長慶の和解勧告に応じ臣従、有能な前線指揮官として活動した。長慶の勢力拡大に貢献し、1555(弘治元)年の丹波八上城攻めや1562(永禄5)年の畠山高政攻めのいずれにも参陣して武功を挙げている。

    長慶の死後は幼少の三好義継の後見役の1人として台頭、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と呼ばれ、松永久秀と共に三好家中で重きをなした。

    1565(永禄8)年旧暦5月19日、他の三人衆の二名と共に三好氏と対立する13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。同年8月、丹波黒井城で久秀の弟の松永長頼(内藤宗勝)が戦死した。この頃から松永久秀と三人衆との関係は悪化する。

    同年11月16日、三好三人衆は飯盛城を襲撃し、義継の身柄を久秀の保護下から強奪して河内国高屋城に移した。三人衆は義継に迫って久秀との断交を約束され、さらに義輝の従弟の阿波公方の一族足利義栄を14代将軍に擁立し、阿波の篠原長房の協力を得ることにも成功した。

    1566(永禄9)年8月23日には、足利義栄を摂津越水城に迎えて遇したことが、主君の三好義継の不興を買い、1567(永禄10)年2月、義継は出奔し、久秀を頼って三人衆と敵対するようになり、これを見て三好康長らも三人衆から離反し、三好家は再び分裂抗争することになった。

    1568(永禄11)年9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、松永久秀らが織田信長に接近する一方で、政康ら三人衆は信長との敵対の道を選んだが、同年9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、政康も城主であった山城国の木津城から退いた。

    その後、石山本願寺や信長と不仲となった足利義昭らを巻き込み信長との抗争は激化したが、畿内での兵乱(元亀兵乱)が信長の優位で決着すると、動向が不明となっていた。

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