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6月12日、今日は【桶狭間の戦い(1560)】
更新 : 2011/6/14 17:32
今日は【桶狭間の戦い(1560)】です。
桶狭間(おけはざま)の戦いとは、1560(永禄3年)旧暦5月19日(新暦6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦である。2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させた、日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。
東海道に君臨した今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内の制圧に向かって急成長していったことで戦国時代の重要な転機となった。
戦国期の東海地方においては駿河国守護の今川氏が戦国大名として成長し、今川義元は駿府を本拠に駿河・遠江に領国を形成し、甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と甲駿相三国同盟を結び、三河・尾張方面への進出傾向を見せていた。一方、尾張国では守護斯波氏の家老である織田弾正忠家が成長し、信秀・信長期には尾張統一のきざしを見せていたおり、織田氏と今川氏は織田信秀の時代から三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきた。
『信長公記』に描かれる今川義元の最後は、義元は輿を捨て、30騎の親衛隊の部下が円形に取り囲みつつ自身も騎馬で退却したが、信長の馬廻の一人の服部一忠にまず追いつかれて、斬りかかられ、服部の右ひざを斬って負傷させた。しかし服部との格闘の間に迫ってきた新手の毛利新助と乱戦になる中で、信長自身が追いつき馬を降りて、義元を助けようと近づいてくる親衛隊を斬る中、組み伏せられた義元は、ついに毛利によって討ち取られた、とある。
義元の戦死により今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田軍の大勝に終わった。松平元康(後の徳川家康)は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、1562(永禄5)年に氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後急速に勢力を拡大させていった。
桶狭間の戦いによる今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に影響を及ぼし、甲斐の武田氏と今川氏は氏真への当主交代の頃から関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される事となる。