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7月4日、今日は【楠木正成、忌日(1336)】
更新 : 2011/7/5 0:51
今日は【楠木正成、忌日(1336(建武3)年)】です。
楠木正成(くすのきまさしげ)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880(明治13)年には正一位を追贈された。
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でさえも同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためであろう。
1559(永禄2)年、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて朝敵でなくなる。また江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、忠臣として見直された。江戸時代後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがてのちの湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなる。
今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。
明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られる。
佩刀(はいとう)であったと伝承される小竜景光は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。
明治政府は南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探したが、正成の末裔を自称する氏族は数多く全国各地に存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至る。