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  • 7月4日、今日は【明智秀満、忌日(1582)】

    更新 : 2011/7/5 1:18

    今日は【明智秀満、忌日(1582(天正10)年)】です。

    明智秀満(あけちひでみつ)とは、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏家臣の明智光秀の重臣。明智秀満を名乗る以前、あるいは以降も三宅弥平次と称されていた。

    1578(天正6)年頃、秀満は光秀の次女(実際は明智光廉の娘)を正室に迎える。光秀の次女は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、1582(天正10)年4月である。

    1581(天正9)年、丹波福知山城代となる。

    1582(天正10)年、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、財宝を包囲軍に渡した後、光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自害したとされる。享年47。

    一説には光秀の墓のある坂本の西教寺に、秀満の墓がなく、過去帳に名前もないこと、あるいは、坂本城で確実に死んだといえる人物がいないことから、秀満が坂本城で自害したとするのには疑問があるとする。例えば、坂本城代とされる三宅長閑斎は、横山(福知山)で捕らえられ刑死した。光秀の前妻の父妻木冬広は、坂本落城後数日経ってから、西教寺の娘の墓前で自害した。光秀の末子(後の喜多村弥兵衛)は、母とともに実家に逃れた。秀満の子(後の三宅重利)は、その後寺沢堅高の家臣となり、天草富岡城代であったときに、天草の乱の際に天草四郎率いる一揆軍に殺されたという。

    坂本城の近くの盛安寺(天台真盛宗)には、秀満が僧衣に着替えたという伝承があり、天台真盛宗本山の西教寺には、その鞍が置かれている。当初は、鎧兜や陣羽織も西教寺に保管されていたという。秀満は、その生まれから最期まで、謎に包まれた人物であることは間違いない。

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