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7月19日、今日は【沖田総司、忌日(1868)】
更新 : 2011/7/21 11:31
今日は【沖田総司、誕生日(1841(天保12)年)】です。
沖田総司とは、陸奥白河藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩屋敷(現・東京都港区)で生まれる。2人の姉がおり、沖田家は姉のみつが婿に林太郎を迎えて相続させる。
父の勝次郎は1845(弘化2)年に死去し、母とも死別したとされる。9歳頃、江戸市谷にあった天然理心流の道場・試衛館(近藤周助)の内弟子となり、のちに新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三とは同門にあたる。若くして天然理心流塾頭を務め、1856(安政3)年には近藤とともに調布の下仙川村(東京都調布市)に出稽古に出かけている記録が見られる。
1863(文久3)年の浪士組結成に参加して上洛する。分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。沖田は一番組組長となる。沖田の一番組は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争う程多くの人を斬ったと言われ、この時期では同年9月の芹沢鴨暗殺、元治元年5月20日の大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺など手がけたという。
1864(元治元)年6月5日の池田屋事件においても近藤ら共に最初に池田屋に踏み込んだ。この奮戦の最中に肺病により吐血し戦線離脱したといわれている。翌月の禁門の変にも出動している。
1865(慶応元)年2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は沖田の介錯で切腹した。
体調の悪化により、第一線で活躍することがなくなるのは1867(慶応3)年以降。慶応3年12月18日、沖田が療養のため滞在していた近藤の妾宅を、元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃した。前月に彼らの指導的立場であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復として狙われたものだが、沖田は伏見奉行所へと出立した後で難を逃れた。同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を銃撃し、負傷させている(墨染事件)。
鳥羽・伏見での敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加するも、中途での落伍を余儀なくされる。
以後は医師で幕臣の松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われれ、近藤勇斬首から2ヶ月後の1868(慶応4)年に死去。近藤の死を知らないまま亡くなったともいわれる。辞世の句は「動かねば 闇にへだつや 花と水」。享年27歳(諸説有)。墓所は東京都港区の専称寺にある。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。