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7月20日、今日は【大友政親、忌日(1496)】
更新 : 2011/7/23 14:12
大友政親、忌日(1496(明応5)年)です。
大友政親(おおともまさちか)とは、室町時代後期の人物。豊後国の戦国大名。童名房丸。五郎。左衛門大夫、豊前守。法名は海蔵寺殿珠山如意。大友氏の第16代当主。第15代当主・大友親繁の長男。母は第14代当主大友親隆の娘。妻は大内政弘の妹。第17代当主大友義右の父。第18代当主大友親治の兄。
1473(文明5)年、父の親繁の隠居により家督を継いだ。1477(文明9)年、前将軍・足利義政から家督の継承を認められ、豊後・筑後両国の守護に任じられる。応仁の乱後も大友家内部では混乱が続いたため、政親は当主の座にいることが嫌になったのか、1484年に生まれたばかりの息子・大友親豊(後の義右)に家督を譲って隠居してしまう。しかし親豊(義右)の母が大内氏の娘であると言う経緯から大内氏の干渉を受ける。また、大友家においても大友氏庶流の大聖院宗心(第13代当主大友親綱の子)が大友氏の家督の奪回のため政親と親豊(義右)の離間を図り暗躍し、家中は政親派と親豊(義右)派とに分裂していく。
政親と親豊(義右)は1487(文明19)年に一時的に和解したものの、1489(長享3)年に政親の異母弟に当たる日田親胤が謀反を起こす(これは同じく弟の大友親治によって鎮圧された)と、宗心は親胤の行為は政親の差し金と親豊(義右)に讒言し、これを信じた親豊(義右)は政親との対立を再開し、明応の政変が勃発すると、政親が足利義高(義澄)を支持し、親豊は足利義材(義稙)を支持するといった具合であった。親豊は義材の一字により義右と改名する。
政親派の田原親宗が義右を一時追放するなど、大友氏内部では混乱が続く。このような中で1496(明応5)年5月13日、政親は豊後を脱出し、筑前へ逐電し、その後まもなく同年5月27日、義右が13歳の若さで早世する事件がおきる。これには病死とも言われているが、当時は対立者であった父・政親の毒殺説がまことしやかに流れた。そしてこの風聞に激怒した義右の縁者である大内義興は同年6月、政親に対して追討軍を差し向けた。政親は船で立花山城をめざしていたが、赤間関で大内軍に捕らえられて処刑されたのである。享年53。墓地は臼杵市の海蔵寺。大内氏の縁者を妻とし、その間に息子が生まれたことが、彼にはかえって悲劇となってしまったのである。
今も残る宇部市大字船木野田の茶臼山のふもとにある地蔵院跡(画像)で、大友政親が捕らえられて自刃したと云われる。