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  • 7月20日、今日は【本多正信、忌日(1616)】

    更新 : 2011/7/20 22:22

    今日は【本多正信、忌日(1616(元和2)年)】です。

    本多正信(ほんだまさのぶ)とは、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の重臣で、江戸幕府の老中。相模玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。

    1538(天文7)年、本多俊正の次男として三河で生まれる。はじめ鷹匠として徳川家康に仕えた。しかし1563(永禄6)年、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟と共に家康に敵対した。そして一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えた後、出奔し諸国を流浪する。流浪した末、旧知の大久保忠世のとりなしによって無事に徳川氏に帰参する。

    1582(天正10)年、本能寺の変が起こって信長が横死すると、当時、堺の町を遊覧していた家康は伊賀越えを決意する。このとき、正信も伊賀越えに付き従っていたといわれている。

    1590(天正18)年の小田原の役後、家康が豊臣秀吉の命令で関東に移ると、相模玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。

    1598(慶長3)年の秀吉死去の頃から家康の参謀として大いに活躍するようになり、家康が覇権奪取を行なう過程で行なわれた1599(慶長4)年の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。

    1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って、遅参している。

    1601(慶長6)年からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。1603(慶長8)年に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。1605(慶長10)年に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、1607(慶長12)年からは秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。

    しかしあまりに権勢を得たことは本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。しかし家康の正信に対する信任が変わることは無く、1610(慶長15)年には年寄衆からさらに特別待遇を受けて大老のような地位にまで昇進している。

    1616(元和2)年4月、家康が死去すると家督を嫡男の正純に譲り隠居して一切の政務から離れ、旧暦6月7日に家康の後を追うように死去した。享年79。

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